僕が高校時代に、ハインリヒ・シュリーマンの半生に強く刺激を受けたことは別稿で書きました。

それを踏まえて、僕がどうして今さら「そうだシュリーマンになろう」と思うようになったのか、その高校時代の情熱を思い出させてくれた、ある人物について本稿では語ります。
年商100億円の非公開優良企業を創業
僕が「現代のシュリーマン」として密かに尊敬している人。
それは前職の貿易会社の創業者です。ここでは仮に「オーナー」と呼ぶことにします。
んー、どこから書けばいいかな。
戦前、満州から東京に移り住んだ白系ロシア人
オーナーは、日本人ではありません。1920年代に満州のハルピンで生まれた、いわゆる白系ロシア人です。お父さんはもともとウクライナ出身の技術者で、ロシア革命を嫌って東方に移住してきたようです。子ども時代は、お父さんの仕事の都合で東シベリアのチタに住んだり、またハルピンに戻ったり、転々と暮らしていたといいます。
オーナーがまだ小さい頃、1932年に満州国が成立しました。その頃の満州は色々な民族が混ざって生活していて、ロシア系もいれば中華系や朝鮮系もいる、そこに日本人も大挙押し寄せてきて、ある意味国際的な環境で幼少期を過ごします。またハルピンの街は「東洋のモスクワ」と呼ばれて、ロシア系の人にとっては住みやすい都市でした。そこで、オーナーの父親は色々なビジネスに手を出す事業家として頑張っていたようです。
この頃すでにお父さんは、仕事を通じて様々な日本人と付き合いがありました。そして一念発起し、つてを辿ってオーナー一家は東京に移住します。1937年かそこらだったと思います。面白いことに、前の会社では彼の初来日を記念して、「オーナー初来日72周年特別手当」的な臨時ボーナスが、毎年6月に全社員に支給されていたりしました(笑)。
日本にやってきたオーナーは、戦前あった早稲田国際学院(現在の早稲田奉仕園の前身で、当時帰国子女や留学生向けに門戸を開放していた。本庄にある高等学院とは違う)に入学して、日本語の勉強を続けます。当初はここで日本語力を磨き、どこかの大学に入学する予定だったそうですが、折悪しく太平洋戦争が始まってしまいました。
戦争中、当時のソ連が中立国でもあり、日本にいるロシア系住民に特別の制限はなかったため、お父さんは事業を継続していたといいます。しかし戦争の激化に伴い、1944年暮れから東京も空襲に見舞われるようになったため、オーナーは他の外国人たちと共に箱根に疎開し、そこで終戦を迎えることになりました。
戦後はGHQ向けのロシア語の講師をつとめる
戦後、大学に行く必要もなくなったオーナーは、お父さんの仕事を手伝いながら色々な事業を手掛けたといいます。パン屋を開いてみたり、タクシー会社を友人と一緒に作ったり。一時期はGHQに来た占領軍のアメリカ兵を相手に、ロシア語の講師もやっていたそうです。
でも彼にとって「貿易会社をやること」が夢だったので、お父さんにも協力してもらって最初の貿易会社を1950年代に創立することになります。最初の頃は時として「勤め人に戻ろうかな」と悩んだこともあったらしいですが、幸い順調に事業は発展し、その時の利益を基に、僕が以前勤めていた会社を新たに東京・神田に開設しました。
今とは違って、当時の日本製品は海外製品の粗悪コピーが多く、国外では誰にも相手にされなかったので、貿易会社とはいいながら自然と事業の柱は、海外輸入する最先端の工業製品に特化するようになります。ここで、戦前戦後を通じた白系ロシア人コミュニティと、GHQ関連のアメリカ人たちとのコネクションが生きてきます。当時の海外輸入品は結構な関税がかけられ高根の花でしたが、どうしても必要な日系企業は無理をしてでも設備投資を行います。とても利益率の高い、いい商売を継続して続けられたようで、本社も銀座に移転して手広く商売を発展させました。
その頃、オーナーは後に配偶者となるイタリア人の女性と大使館のパーティで出会います。この奥さんも日本と縁があって、お父さんがイタリアの修道士として戦前の日本に数年間住んだことがあって、彼女も小さい頃に東京に住んでいたそうです。そして二人は結婚し東京で生活します。
事業は順調に発展、しかし
そんな中(僕はここをきちんと聞いていないので断定的には書けないのですが)、輸入販売した商品か何かの関係で外為法違反となってしまい、オーナーは日本から国外退去を求められます。幸い奥さんがイタリア人だったので、彼はイタリアに移り住み、そこで奥さんがオーナーとなる貿易会社で継続して貿易業に励みます。ちなみに前の会社の主力商品となるポンプは、このイタリアの会社が最初に展示会で見つけてきたものを、日本の自分の会社にも紹介して日本国内での総代理店契約を結ばせたものです。
僕が聞いているバージョンだと、以降20年間日本に入国できなかったという話ですが、あくまでも噂なので、どこまで本当かは分かりません。確かなのは、雇われ日本人社長を銀座の会社に据えていたので、不在の間でもあくまでも彼はオーナーとして会社の支配権を一手に掌握していたということです。またこの間にイタリア国籍も取得し、「日本語がペラペラなロシア系イタリア人」というなんだかよく分からない(笑)人物が出来上がります。
そして一定期間の後、彼は日本に戻れるようになり、銀座の会社の社長として第一線に復帰しました。僕が彼と初めて出会ったのはそれから大分経ってからのことです。
開口一番「あなた、どうして役所をお辞めになったの?」
僕がこの会社に入社したのはJICAを辞めた後でした。色々な企業をあたって、某大手農産物メーカーから東南アジア向けの国際営業のポストに内定が出た頃、突然知らない転職エージェントが持ってきたのがこの銀座の会社の求人でした。
僕の経歴的に少し毛色が違う(工業製品の通訳)感じがしましたが、何だか面白そうなのでとにかく面接を受けてみることに。この会社の選考は、最初に人事課の課長と1対1の予備面接があって人物をある程度確認した上で、いきなり社長面接から始まります。トップダウンの社風であることがこれで分かろうというものです。
そして面接の日、指定された時間に大会議室に行くと、「社長が少し遅れる」ということでしばし待たされます。10分くらいは待った気がします。「大丈夫かなあ、忘れていないだろうなあ」と人事課長が呟いたのが印象的でした。そしてしばらくすると、とつぜん眼光鋭い高齢の外国人のおじいさんが会議室に現れました。
当時のオーナーは80代後半です。そして開口一番、
「失礼なことを訊くようで気分を悪くしたらごめんなさいね。あなた、どうして役所をお辞めになったの?」
ととても達者な日本語で僕に質問してきたのです。戦前の映画みたいな、ああいう上品なトーンです。内心、見た目とのギャップにちょっとウケました。僕はそこに至る経緯を簡潔に説明します。
「なるほどそうですか。で、うちの会社に入ってみたいと思った理由は?」
さすがはカリスマ創業者とでもいうべきか、相対していると結構な風圧、人間的迫力を感じます。圧迫感とまではいかないのですが、つまらないことを口にすれば速攻で面接が終了してしまいそうな雰囲気です。確かシュリーマンの話も口に出して、結局20分ぐらいでしょうか、どちらかというと雑談のような内容で面接は終了しました。
話がひと段落すると、オーナーはざっくばらんに続けます。
「あのね、今日短い時間だけどこうしてお話してみてね、私個人としてはあなたが気に入ったけれども、これは会社で、実務をするのは現場の人間だから、今から現場の管理職を呼びますからね。ちょっとここで待ってて下さい。じゃ、縁があって一緒に仕事が出来るといいですね。それではごきげんよう。」
と言ってその日、オーナーは会議室を出ていったのです。その後は直属の上司になるアメリカ人と英語での面接、そして営業部長とこれまた雑談に近い面接があり、次の日には内定が出ていました。なんだか動きが速すぎて狐につままれたようです。
どちらの内定を取るか悩むも、より面白そうな方へ
僕は結局、農産物メーカーとこの会社の内定でどちらを取るか悩みましたが(エージェント曰く「悩むポイントがわからない」くらいこっちの方がいいらしい)、なんとなく銀座も面白そうだし、なんといってもオーナーが外国人で新しい経験が出来そうなので、こっちを選ぶことにしました。
配属は国際部(この響きが当時大好きだった)、外国メーカー100社以上との電話・メールでのやり取りを日常業務とし、毎週のように来日する外国人技術者を国内でアテンドし、二か月に一回の割合で外国に出張がある新しい仕事です。
時に2012年7月。僕の銀座商社時代の始まりでした。
(続く)
コメント