【小説】第4章:生と死の幻想

Chapter IV - Death and the flower小説: Death and the flower
Chapter IV - Death and the flower

※本作はフィクションです。
実在する団体、個人、地名とは一切関係ありません。

◆主な登場人物
有馬…この物語の主人公。福島県庁からの派遣。28歳。
須藤…有馬のシンガポール事務所同期。神奈川県庁からの派遣。29歳。
田中…同じくシンガポール事務所同期。名古屋市役所からの派遣。36歳。
三木…有馬の事務所1年後輩。青森県むつ市からの派遣。38歳。
馬場…シンガポール事務所の所長。自治省キャリア。43歳。
これまでのあらすじ
 シンガポールに赴任した有馬は、まるで生き急ぐかのように仕事に熱中する。最初はうまくいっているように見えた海外での生活も、少しずつ仕事でのミスが増え、家庭を顧みない姿に仁美の不満も募る。もともと自尊心の低い有馬は無理に無理を重ねた結果、いつしかバーンアウト状態に陥り、ついに鬱状態となり出社不能になってしまう。
低空状態での生活を続ける中、新年度も始まり、事務所からは先輩が去り後輩が入ってくる。新規職員の三木を連れ、有馬の調子を戻すためにとベトナムからミャンマーまで繋がる東西回廊を実験的に走破しレポートする出張が企画される。しかしそこで有馬が目にしたものはー

I – Day -1, 23:00

白銀色の、凄絶なーーという表現が一番しっくりくるーー輝きを放つ月が、夜半過ぎのハン川の真上にゆっくりとかかろうとしていた。有馬と須藤と三木の三人は、川面から上る熱気で対岸にくゆる日系メーカーのネオンサインを横に見ながら、寝苦しい夜を涼みにやってくるのであろう、遅い時間にもかかわらず多くの人が行き来する川辺で、地元民が広げている様々な土産物を物色しながら歩いていた。

「明日はついにラオスに入るんだねぇ」と須藤が木工細工の鳥を手に取りながら言う。有馬達は昨日ホーチミンに着いてから、ベトナム航空国内線に乗り換えダナンに移動し、そこから半日かけてこのフエまで車に乗り続けた。彼らが通ったこの道路-メコン東西回廊-を西に向かえば、ラオス、タイを抜けてミャンマーのモーラミャインにたどり着けるのだ。

f:id:zenith_a:20190524084238j:plain唯一の女性メンバーである田中は、「あたし、ネットが使えるベトナムにいるうちに、メール確認しとかなきゃ。男同士でご自由に楽しんで来てちょうだい」とクールに言い残して、夕食もそこそこに早々にホテルの部屋に戻っていった。

有馬がベトナムに来るのはこれが2回目だった。前回はちょうど県庁のミッション団に同行して、ホーチミン、ハノイ、ダナンにフエと4都市を回って、一週間の旅程を終え帰国したのだが、この時は携帯をなくしてしまって散々な目にあった。
事務所の保険契約の関係で、出張中に備品を紛失した場合には現地警察に届け出て、紛失証明書を書いて持ち帰らないといけない。そのときはガイドに同行してもらって地元の交番に行ったのだが、事情をガイドが説明しても、公安の警官は「座って待て」というだけで机に向かって書類を眺めているばかりだ。

そうこうするうちに10分、20分と経ったが、一向に確認を行う気配も見えない。時々出入りする警察官と何か二言三言話すのだが、どうもこちらの紛失携帯について話をしている様子も見えない。ついには何もアクションがないまま30分を過ぎたので、渋るガイドを促してどうなっているのか聞いてもらうことにした。言葉は違っても、官憲の横柄な物言いは万国共通だ。すぐにガイドがこちらを振り向き、小声で有馬に囁いた。
「今、この警官は落とし物として届け出が出てないか確認しているというのですが、多分何もしていないと思います」
「ああ、見てるとそうみたいだね。別に見つけてもらわなくてもいいから、早く書類を書いてもらって帰りたいんだけど・・・。」
「紛失証明は、きちんと落とし物の届け出がないかどうか確認してからでないと書けないと言っています。」
「そういうものかなあ。じゃあもう少し待つよ。」
無聊をかこつガイド氏は、時間を持て余し始めたのか、別な警官と何かたわいもない雑談を始めたようだった。有馬は所在なく、カバンの中から「地球の歩き方」を取り出して読み始めた。そのうち、45分・・・1時間・・・さすがにこれはないだろうと思い、有馬は再度ガイド氏に声を掛けた。
「ねぇ、どうなってるんだろう。早く書類を出してくれるように言ってもらえないかな?」
警官との雑談を中断されたガイド氏は、びっくりしたような顔でこちらを振り向いた。彼はこういうケースには慣れているのか、非常に冷静に、しかし簡潔に次の言葉を運んだ。
「多分、お金を渡さないと発行してもらえないと思います」
有馬は一瞬耳を疑った。
「お金って、賄賂を渡すってこと?」ガイド氏は表情を変えずに答える。
「賄賂じゃないですよ。時間がかかる作業を早く終わらせてもらうためのお礼です」
「でも、これだけ待ってるのに全然確認すらしてないじゃないか。」
「本部に連絡はしたと言っていますから、確認はしてると思いますよ。ただ、急ぎで出してほしいのであれば、それなりの謝礼が必要なだけです。」
有馬は思わずガイド氏の顔を、その表情を見直さずにはいられなかった。彼の表情には、いつの間にか有馬をからかっているかのような、憐れみすら感じさせるような微笑が浮かんでいた。
「出さないなら出さなくてもいいんですよ、そのうち確認は終わりますから・・・いつになるかは分かりませんけどね。」
なんだそれは。有馬は思わず天を仰ぎたくなった。公安警察が暗に賄賂を要求してくるなんて。しかもこんな証明書一つ出すのに・・・。しかし幸か不幸か、有馬はその夜は何の用事も予定もなかった。時計の針は7時を過ぎている。
(よーし、そっちがその気ならこっちだってやってやろうじゃないか。とことんつきあってやる。払う必要のない金なんか1ドンだって払わんぞ。外人なめんなよ!)
有馬はシャツの裾をベルトの下に押し込み、背筋をピンと張り気合いを入れた。勝負だ!

・・・そして結局、最終的に有馬はこの根比べには勝利し、無事紛失証明書を入手した(ただしベトナム語だったため、シンガポールに帰ってから翻訳証明でさらにトラブルは続く。)。しかしその代償として、彼が公安警察の派出所を出た時にはもう10時近くになっていた。ここを訪れてから、すでに3時間以上が経過していた。

そんなことがあって、(それ以外にも細かいトラブルが色々続いて)有馬の目に映るベトナムは決して好ましい印象ではなかったが、それでもフランスパンにレバーペーストを挟み込んだバンミーはおいしかったし、中部ベトナムを代表するフォーである、牛肉がたっぷり入ったバンボーフエは今まで食べた麺料理の中でも上位にランクインする味だった。フエはフランス人観光客が多いため、フランス語のローカル新聞まで出ている。いつしかこの国における有馬の朝の楽しみは、朝食を取りながらたどたどしくフランス語の新聞を解読し、記憶の中から懐かしい語彙を蘇らせる作業になった。

「きれいな月ですねぇ。」
三木はしみじみと空を見上げながら言った。
「こんな大きな月は今まで見たことがないなあ。夜中なのに、まるで昼間の光が降ってくるような明るさだ。」
「ベトナムは本当にいいところですよ」
と、すっかりベトナムにはまっている須藤が答える。
「それに三木さんは今回ラッキーですよ、だって所長や次長がいない出張なんてなかなかないし。」
有馬も大きくうなずく。
「全く、こんな気楽な出張ばかりだといいんですけどね。」
「いやでも、そうですねえ。最初の出張がこんなに気楽だったら、後から大変かもですね。」
三木は有馬や須藤よりずっと年上なのに、いつも敬語を欠かさない。何度やめてくれるように言っても、「そうは言っても事務所の先輩ですから、そこはね」と言って譲らないのだ。東北人は多かれ少なかれ頑固であるが、生粋の青森人である三木にもそれは当てはまるようだった。

時間はすでに23時に近かった。
「じゃあ、ここでブラブラしていてもなんだし、どこかに飲み直しに行こうか。」
誰からともなくそう言い出し、三人はホテルの方角に戻り始めた。
「三木さんはまだ眠くないんですか?」
初めての出張だし、いい加減疲れているはずだと思い有馬は助け船を出したつもりだったが、
「いえ、まだ大丈夫っすよ。」
と三木は答え、そのまま暗いフエの街を三人は闊歩した。
有馬には、三木がなんだか無理をしているような気がして少し気になった。

途中、若いローカルの女の子が4人、すれ違いざまにどこか媚びた笑いを含ませた視線を有馬達に向けた。不意を突かれた有馬は、思わず微笑み返してしまったが、どうやら他の二人も似たようなものだったらしい。すれ違って少し経ってから、後ろから何か声が聞こえ、同時に静かな笑い声が闇の中に広がった。思わず立ち止まった有馬達が振り向くと、少し距離を置いたあたりで向こうの4人も立ち止まってこちらを見ている。
「なんだろうね」と有馬は言う。
「誘ってんじゃないのかな、多分」と、須藤は闇の方に目を凝らしながら答えた。満更でもない様子だ。
「でもまあ、こっちは疲れてるし、明日も朝から長距離ドライブだしなあ。」
結局、有馬が「Good night!」と叫ぶと、彼女たちはケラケラ笑って手を振りながら、フエの闇に消えていった。

「もう遅い時間だし、あまり遠くに行かない方がいいよね。」
と須藤が言うので、3人は一旦ホテルに戻り、その周辺で飲めそうな店を改めて探し始めた。
「ああ、ここは飲めそうだよ」
と言って須藤が見つけてきたのは、別なホテルの高級そうなラウンジだった。23時を回っているためか、フロントは閑散としていて従業員も見あたらない。
「ああよかった、ここのバーはまだやってるみたいだ。」
有馬と三木は、須藤に連れられるまま1階奥のピアノバーに腰を落ち着けた。
「とりあえず、バーバーバーですかね。」
須藤はバーテンダーに声をかけ、ローカルビールを3本頼んだ。

それから三人はひとしきり、職場の話題で盛り上がった。というよりは、有馬と須藤が一方的に「職場で気をつけること」を三木に教え込んでいたというほうが正しいかもしれない。さらに言えば、職場に気をつけることというよりも、ひたすら馬場所長対策について先輩としてレクチャーを授けていたという方が当たっていた。
そのうち、須藤と三木が話し込み始めた頃合いを見て、有馬はゆっくりピアノに向かって歩いていった。使い込んではいるものの、きちんと手入れされて黒光りのするちゃんとしたグランドピアノだ。バーテンダーにジェスチャーで「弾いていいかい?」と訪ねたら、笑顔で親指を立ててくれた。

「あれ、有馬君ってピアノ弾けるんだっけ」と須藤が向こう側から声をかける。
「自己流だけどね。楽譜は読めないけど、コードで弾く分には問題なく弾けますよ。」
「俺も小さい頃エレクトーンやってたから弾けるよ。後で貸してね。」
「貸すって・・・まあ後でね。」

“Let it be”, “Honesty”, “The long and winding road”, “Bridge over troubled water”…. いつものナンバーを少し崩し気味に弾きはじめた。シンガポールの部屋にわざわざ電子ピアノを置いて指が鈍らないようにしているのも、ある種こういう時のためのものだ。有馬が唯一リラックスできるのは、音楽に接している時だけなのだ。

あまりうるさく弾いても良くないので、ほどほどにボリュームを絞り、ラウンジっぽく演奏を続ける。酒も入っているし、多分グダグダだろうがあるいはこれを人はジャジーと呼ぶのだ。開き直った有馬の酔っぱらい演奏が終わるたびに、カウンターで暇を持て余すバーテンダーが親指を立ててくれる。

今このバーには、有馬と須藤、三木とこのバーテンダーの4人しかいない。相変わらず三木は須藤のアドバイスを熱心に聞いているようだが、有馬にとってはそんな話はどうでもよかった。ただ思いのままに白鍵と黒鍵の間を繋ぎ、聴衆3名だけの小さな演奏会が続いた。


Paul McCartney – The Long And Winding Road

そのとき。携帯の着信音が鳴る。
三木の携帯が鳴り、彼は不安げにその電話に出た。敬語で話しているから、時間的にも場所的にも相手は多分田中なのだろう。うなずきながらしばらく話した後で、せわしげに三木は席から立ち上がった。
「どうしたの?」須藤が思わず訪ねた。
「ちょっと今度の出張のフライトの関係で・・・部屋に帰って、調べ物をしなくちゃならないんで帰ります。」
「え、今から?そんなの明日でいいんじゃないのかなあ。」
有馬は思わず須藤と目を合わせ、生真面目な三木の態度に半ば呆れ顔だった。
「いや、明日からネットが使えないところに行くんで、ベトナムにいるうちに調べておかないと、もうミャンマーに着くまで何も出来ないので。ちょっと先に帰りますね。申し訳ないです。」
「ああそうなんだ。気をつけてホテルに帰って下さいね。明日もあるから、あまり夜更かししないで寝た方がいいですよ。」
「はい、では帰ります。」
そそくさと三木はバーを後にした。ピアノを弾く有馬の横を小走りで通り過ぎる三木を眺めながら、「真面目な人なんだなあ、三木さんは。」と、有馬は思わず嘆息するのだった。ホテルのドアが開いて、三木の大きい背中は不安げに闇に揺れながら消えていく。そのあと、須藤と有馬は少しだけバーに居て、次の日に移動するラオスのことを考えながらそこを後にした。

しかし神ならぬ身の有馬にとって、まさかまたそのバーに戻ってくるとも、またそれが三木の最後の姿になろうとはまさに知る由とてなかった。

II – Day 1, 8:50

次の日の朝。
有馬はこの日起きたことを今でも忘れることが出来ない。
この日、4人のメコン東西回廊走破出張は三日目に突入しようとしていた。

昨日遅くまでバーで飲み過ごしてしまったので、若干頭が重く感じるが、特に体調に変化もなく普通の目覚めだ。朝は8時半にロビーに集合となっていたから、傍らの時計が7時半を指していることを確認し、(まだ余裕は十分あるな)と、有馬はベッドを跳ね起きた。

その日の宿であるSホテルは、フエの中心部にありながら周りを木立に囲まれ、中庭にはフレンチコロニアル様式の重量感ある木製のテーブルとイスが置かれた瀟洒な宿だった。窓から中庭を覗くと、すでに朝食のバイキングが始まっており、様々な国の人々が思い思いに朝食を取っている様子が見て取れる。

東南アジアの出張は、朝食をいかにしっかり取るかで明暗を分けると言ってもよい。ましてや今日は、借上車に乗って何百キロも移動せねばならない。有馬は急いでシャワーを浴び、まだ水分の残る髪のまま中庭に下りていった。
庭に下りると、比較的高齢のフランス人観光客が大勢いて朝食を取っているところだ。有馬は周囲を見回したが、他の職員は誰もいないようだった。普通なら朝食を取っていれば誰かとは会うことになるから、有馬は4人掛けのテーブルを占領し、ヨーグルトと固焼きのパン、そしてフルーツとサラダを山盛りにして朝食を取り始めた。

ベトナム人のボーイが元気たっぷりに「コーヒーや紅茶はいかがです?」と勧めて来たが、有馬は断る。代わりにポケットから昨日買った煙草を一本取り出して、ガスの足りないライターに苦戦しながらも、なんとか一服することができた。有馬は四角く切り取られた空を中庭から見上げてみた。
ふと須藤のことを思い出した。昨日は二人でフラフラになるまで飲んでからホテルに戻ったが、満足に自室のカギも取り出せないくらい泥酔していて、果たして大丈夫かしらんと心配になった。そういえば三木も無事に帰ることが出来たのだろうか。どうせ夜中に出来る仕事なんて限られているのだから、忘れてしまって寝ればいいのに、とやや強張った律儀な三木の去り際の顔が思い出された。

さっきから20分近く中庭にいるが、まだ誰も降りてこない。あるいは、もう全員すでに朝飯を済ませて出発の支度をしているのかもしれない。有馬は時計を見た。針は8時を過ぎている。やばい、そろそろ部屋に戻らないと。有馬は食器を片づけ始めたボーイに礼をいい、エレベーターホールに急いだ。

8時半ちょうどに有馬がロビーに下りると、すでに須藤と田中はチェックアウトもすませ、スーツケースを横にソファで雑談をしているところだった。有馬は急いでフロントにカギを渡し、清算のためのサインを済ませてソファに向かう。
「おはようございます。」
「ああおはよう有馬君、昨日はお疲れ様。調子はどう?」
いつも気さくな須藤が聞いてきた。
「ちょっとお酒が残ってるけど大丈夫ですね。ところで三木さんは?」
三人で辺りを見回すが、三木が下りてきた気配はない。フロントがあるロビーはこじんまりとしているから、どこか別の場所で待っているわけでもないようだった。田中が言う。
「まだ見てないから寝坊でもしているのかもね。あなたたち昨日は遅かったんでしょ?」
「いやでも三木さんはそんなに遅くなかったですよ。僕と有馬と一緒に飲んでいる時に来た田中さんからの電話で、先にホテルに戻っちゃったし。電話で一体どんな話をしたんですか?」
「んー、昨日ホテルに帰って例の別出張のフライトを念のためチェックしてたんだけど、どうやら土曜日はフライトの時刻が違ってて、三木さんの作ったスケジュールだと土曜日中にシンガポールに帰ってこれないことに気が付いたんだよね。また明日相談しようとは言ったけど、とりあえず気になったから電話したんだけどね。」
田中はさして興味もなさそうに言った。
束の間の沈黙が三人を襲う。

一分、二分・・・三木が現れる気配はない。

時計はすでに8時40分にさしかかろうとしていた。
「遅いね。これは寝坊決定だね。」
須藤がぽつりと言った。田中と有馬も頷いた。
「とりあえず、携帯で呼び出してみましょうか。」
と、有馬はソニーエリクソンの携帯を取り出し三木の番号にかけてみた。ビーッ、ビーッ。呼び出し音は続くが三木は出ないようだった。すぐにベトナム語の自動メッセージに変わる。よほど熟睡しているのか、あるいは出発の時刻を勘違いしてシャワーでも浴びているのか。有馬は舌打ちしたい気持ちで電話を切った。
それを見ていた須藤は、「じゃあ内線でかけてみるよ。」と言ってフロントに向かった。フロントマンから三木の部屋番号を聞き出し、卓上にあった内線電話機で三木の部屋を呼び出す。しばらくして、須藤が大げさに肩をすくめて見せ、内線でも呼び出しに答えないことが見て取れた。
「仕方ないなあ三木さんは。帰ってヤケ酒でも飲んだのかなあ。部屋に行って起してきますよ。」
とつぶやいて、須藤から部屋番号を確かめた後、有馬は何も考えずに、しかしやや乱暴な足取りで2階への白い螺旋階段に向かった。

このホテルの廊下は、ヨーロッパのポルチコ風に天井が高くゆったりとした造りになっているが、朝方すでにライトを切ってしまっているため、強い湿気と相俟って真っ暗な中に重苦しい空気が漂っている。古いホテルにありがちな、迷路のように曲がっている廊下だったから、三木の部屋に辿りつくまで有馬は3回曲がり角をやり過ごさねばならなかった。
最後の角を曲がると、ふと前方にホテルの従業員が4人ほど、ある部屋を取り囲むようにして立っているのが目に入った。部屋のドアは開け放たれ、奥の窓から熱帯の朝のまぶしいばかりの光が廊下に漏れている。
(ふーん、なんかあったのかな)と思いながら有馬はそこを通り過ぎようとして、次の部屋の番号を見て立ち竦んだ。ドアが開いている部屋の番号は、まぎれもなく今から行こうとしている三木の部屋だった。有馬の頭の中は一瞬混乱した。

従業員達は、有馬の姿を認めると、まるで部屋の入口を譲るように空けてくれた。声もなく雄弁な視線が交わされた。有馬は彼らの顔に、憐みとも同情ともとれるなんとも形容しがたい表情を見て取った。何だ、何が起きたっていうんだ。


状況が把握できないまま、有馬は促されるように部屋の入口に立った。入口からは中庭に通じる部屋の窓が見え、昇り始めた太陽が中空で逆光となって有馬の目を射した。思わず目を細めて部屋を覗くと、入口から見える部屋の中に、ありえない角度で左足が投げ出されているのが目に入った。瞬間、有馬の心臓は弾かれたように大きく早く鼓動を打ち始めた。

(なんだ、こんな部屋の隅っこで、酔っ払って寝てるのか?)
と考えるのが精いっぱいだった。

有馬はかけよって起してやろうと、部屋の中に足を進めた。バスルームを過ぎ、部屋の中に立ち入る、その瞬間。有馬の視界に飛び込んできたのは、うつ伏せのまま壁に向かい絶命している三木の姿だった。

◇ ◇ ◇

有馬には、何が起きたのか全く理解できなかった。そうしてしばらく呆然とそこに立ち尽くすしかなかった。一瞬、救命をしようかという考えが頭を過ぎったが、しかしすでに彼から生命反応が失われているのはもはや明白だった。部屋の中のあらゆる状況が、縊死の際に起きると云われている現象といちいち一致していた。

当惑と冷静の奇妙な混淆が有馬の脳裏を支配しつつある中、ふと脈絡もなく有馬の頭には「武士の情」という言葉が浮かんだ。

そうだ、これは自殺に違いない。

自ら望んだ死であるのなら、もはや有馬に出来ることは何一つない。このまま警察が来るのを待とう。それが武士の情けだ。真っ白な頭の中でかろうじてそう思い、有馬は今来た廊下を、重い足取りでロビーに向けて戻り始めた。

部屋を出ると、向こうからトランシーバーを持ったフロント係と須藤が足早に有馬の方に向かってくるのが見えた。二人とも顔がこわばっている。
「何、何どうしたの?何があったの?」と須藤は息せき切って有馬に尋ねた。有馬の脳裏には今見てきた光景が再度浮かんできたが、これをどうにも言葉に変えることが出来ない。思わず「見れば分かりますよ。」と冷たく口走ってしまった。

しかし、同時にそれが一番似つかわしい表現にも思えた。そう、見れば全て分かる。言葉でいくら説明するより、実際に見れば一瞬で分かる。有馬は須藤の横を通り過ぎ、ロビーへと急いだ。これから、忙しい一日が始まるに違いない。真っ白な頭の片隅で、しかし有馬は奇妙に冷静に、これから取るべき手順を考え始めていた。
「なに、どういうこと?」といいながら、須藤は三木の部屋へと足を踏み入れたようだった。しかし次の瞬間・・・昼なお暗い廊下をロビーへと足早に急ぐ有馬の背後から、須藤の短い悲鳴が響きわたった。

有馬はロビーに戻る螺旋階段を、来たときよりもさらに乱暴に下りていった。下では田中が待ちくたびれたように腕を組んで立っていたが、有馬の姿を認めると訝しげな目を向ける。
「どうしたの、何か起きたの?さっき須藤君がホテルの人に呼ばれてそっちに向かったんだけど」と田中は不安げな表情を浮かべた。
「いいですか、落ち着いて聞いて下さいね。」
と、その実自分自身を落ち着かせるために有馬は一呼吸おき、それから田中に告げた。
「今三木さんの部屋を見てきましたが、彼は部屋で亡くなっています。状況から見て、自殺だと考えられます。」
田中の表情はその瞬間硬直した。かすかに視線が泳ぎ、次いで何かを吐き出すかのような一言が発せられた。
「そう・・・。」
上から須藤が螺旋階段を下りてくる音が聞こえてきた。二人はそれを見上げ、そして有馬は田中を促すように続けた。
「とにかく所長に一報入れましょう。今シンガポールは10時を過ぎていますから、もう所長も事務所に出ているはずです。」
「分かったわ。ちょっと待って。」
田中は努めて冷静に振舞おうとしていたが、しかしその手がかすかに震えているのが有馬には見て取れた。ボタンをいくつか押してから、彼女は白い首を傾げ、携帯を持ち替えて耳に近づけた。
「おはようございます、田中です。所長はいらっしゃいますか?」
ややあって電話の向こうで声の大きい所長の応答が聞こえてきた。
「所長・・・実は三木さんですが、今朝ホテルの部屋で亡くなっているのが発見されました。」
やや間が空く。
「はい。待ち合わせ時間に来ないので、有馬さんに見に行ってもらったら。ええ…とりあえずこちらで待機します。…わかりました。また状況が変わりましたら連絡します。」
田中が電話を終え、有馬と須藤で囲むようにして立っていた。
「どんな…状況だったの?」
と田中が有馬に尋ねた。
「十中八九、自殺です。スーツケースにかけるベルトを輪にして、衣紋掛けからそれを吊り下げて、うつ伏せの体勢で。部屋の中に荒らされた跡はありません。着衣に乱れもないので、外部から何者かがどうこうというのは考えにくいです。」
「ええ、あれは自殺ですね。」と須藤も口をそろえた。
「私も現場を見てきた方がいいのかしら。」
「いや、やめた方がいいです。もうフロントから警察に連絡が行っているので、すぐに現場検証が始まるはずです。ここで警察が来るのを待ちましょう。」と有馬が答えた瞬間、タイミングよく地元警察官が5,6人ホテルに入ってきた。有馬達を一瞥すると、すぐにそれと分かったようで、何やら道具箱らしきものを抱えた数名が階段から2階に向かうと同時に、有馬達に向かって刑事と思しき人々が近づいてきた。目礼をすると、彼らは通訳と話し始めた。
「これから警察の事情聴取が始まります。英語でいいので、今回の出張の経緯や本人についていろいろ聞きたいと言っています。」

三人はそれぞれ担当の刑事とともに食堂に移り、それぞれ座席を取り警察からの聴取が始まった。有馬を担当したのは色の黒い、動作の機敏ないかにも刑事然としたベトナム人だった。最初に有馬の名前と住所、ベトナムに入国してからフエに着くまでの経緯、今回の出張の目的などを聞かれた。刑事が話すのが流ちょうな英語だったのにまず有馬は驚いた。次いで、昨日の夜までの三木の様子と、変わったところや自殺をほのめかすような言動が見られなかったか尋ねられた。だが、正直言って有馬には三木が自殺する理由は全く思い当たらなかった。前日まで須藤と3人で飲み歩き、昨夜はTシャツ屋で気に入ったシャツを3枚も買い込んで喜んでいたのだ。死を覚悟した人間が、どうして着もしないシャツを買い込んで嬉しそうにするだろう?有馬は正直に、思うままのことを刑事に英語で伝えたが、刑事は無表情に何やらベトナム語でメモを取り続けるだけだった。
すると、食堂の扉が開いてガイドのノーが飛び込んで来、有馬の姿を認めると入口から声をかけた。
「有馬さんすみません、ちょっと来てもらえますか。」
ついで、有馬を聴取していた刑事にも何事かベトナム語で伝えると、刑事はわかったというように席を立ち、窓際に向かいゆっくりと立ち去った。有馬は席を立ち、入口にいるノーの所に行った。有馬を上目使いに見、すまなさそうにノーがいう。
「有馬さん、大変申し訳ないのですが、第一発見者である有馬さんに現場検証に立ち会ってもらいたいと警察の人が言っています。」
「第一発見者って、俺が行ったときにはすでにホテルの従業員がドアの前に集まっていた。僕が最初に発見したんじゃない。俺が行ったときにはもうドアが開いていたよ」
「そうですが、彼の遺品の中に遺書がないか、金銭が盗まれた形跡がないか確認できるのは同行者だけだということで、来てもらわないと確認が終わらない状況です。」
有馬は思わずうめいた。またあの部屋に行けというのか。
「こんな目に遭っているというのに、どうしてもまた現場に行かないとダメなんだ?」
「すみません、警察の言うことには素直に従った方がいいです。逆らっても何もいいことはありません。」とノーもあきらめ顔で言う。
「分かったよ、行くよ…。」有馬はまた、白い螺旋階段を重い足取りで上がり始めた。

有馬が再び二階に挙がると、廊下に充満するじっとりとべたつくような湿気交じりの闇が有馬を包み、やがてドアの開け放たれた三木の部屋が見えてきた。部屋の入口には警察の鑑識が使っているであろう道具箱が無造作に置かれ、入口から中を覗くと青いシートをかけられた三木の遺体が通路に寝かされているのが見えた。有馬は心の中で手を合わせる。
「中に入って下さい」
と、通訳に促されるようにして有馬が室内に入ると、クーラーも入れない部屋に鑑識班と思しき警察官が写真撮影や指紋採取を行っており、中は異様な熱気と匂いに包まれていた。
有馬は思わず喉のあたりにこみ上げてくるものを覚え、通訳に「クーラーを入れてくれるよう言ってくれないか」と頼んだが、現場に立ち会っていたフロント係は静かに首を振った。それではと、有馬は窓を開け放ったが外からも熱気が室内に流れ込んだだけだった。どちらが涼しいのかわからないくらい暑かったが、とりあえず有馬は部屋にこもる異様な空気から逃れることが出来た。
現場を取り仕切る、一番偉そうな態度をした警官が通訳に何事か告げた。
「有馬さん、こちらは刑事部長の方です。第一発見者である有馬さんに、三木さんの遺品を全て確認してほしいと言っています。」
部屋の中を見ると、まるで寝起きのそのままのように三木の身の回り品が無造作に置かれていた。机の上には灰皿代わりに水の入ったペットボトルに吸殻が何本も入れられ、机の上にはブルネイ出張のスケジュールと鉛筆でフライト時間を書き込んだものが置かれている。ベッドの横にはスーツケースが寝かされ、荷物がきちんと畳まれてしまってあるようだった。
「確認といっても、何を確認すればいいんだい」通訳が確認をする。
「所持品がなくなっていないか、何か自殺をほのめかすメッセージがないか一つずつ調べてほしいそうです。写真も撮っていきますからご協力をお願いします」
有馬は床の上に無造作に置かれたスーツケースに目をやる。
「調べるって、彼が何を持ってきたかなんて知りようもないんだけど」
「一つひとつベッドに広げて、何もないか見てほしいと言っています」
有馬は心底呆れた。またこういう、形式だけの話だ。要は彼らは、有馬が衣類を確認している写真が欲しいだけなのだ。しかし何もやらないと始まらないし、もうすでに気分はやけっぱちになっている。勝手にしろ、と嘯き作業が始まった。

彼の衣類は綺麗に畳まれていた。それを一つ一つ広げてベッドに乗せて、また戻していく。なんという無駄な、そして気の滅入る作業だろう。これを全部やれというのだからどうにかしている。写真をいちいち撮られるので、10分近くかけてようやく全て作業が終わり、綺麗に服を畳み、またスーツケースに戻した。

「次に彼のノートブックがあるので、そこに何かメッセージがないか調べて下さい」
正直、有馬はこの作業はやりたくなかった。もし彼が何かをノートに書いていたら、修正不能な傷が残ってしまうかも知れない。それが例え誰に宛てたどんな内容だろうと、有馬にとっては厳しいメッセージになる気がして仕方ない。
しかし一枚一枚、ページをめくっていく。
そうして最後のページは、いくつかのフライト情報をメモに取った内容だった。何も特別なメッセージは残されていない。なぜか分からないが、有馬はほっとした。しかし同時に、何かを書いていてほしかった自分も居る。

なぜ彼がこのようなことになったのか、状況からある程度まで推察は出来るものの、一つの謎として残ってしまった。あるいは、発作的に怒りか何かに任せてこういうことになってしまったのだろうか。有馬は考え込み、そのうちにも室内で検視作業はまだ続いている。
「有馬さん、ロビーに戻っていただいて結構だそうです」
やがてノーに促され、ようやく有馬はこの辛い作業から解放された。

III – Day 1, 11:50

重い足取りでロビーに戻ると、隅の方のソファーに田中と須藤が放心したように座り込んでいる。有馬が合流すると、3人ともそれぞれ思い思いの思考に沈み込んでいる格好になった。有馬なら、この今の3人の銅像を作るとしたらどんなタイトルにするだろうか。
しばらくして「…何かメッセージとか、残されてるものはあった?」と田中が問う。「いえ、綿密に確認したけど何もありませんでした」
有馬はややうつむき加減に言うしかなかった。
「そう」
田中はいったん顔を両手で撫で上げるようにしてから、つぶやいた。
「私、今朝、胸騒ぎがしたのよ」
思わず須藤と有馬の視線が田中に向く。
「三木さんに何か良くないことが起きるって。起こしに行かなきゃならない気がしたのよ。7時ぐらいだったわ。起こして、一緒に朝ご飯を食べないといけないって突然思ったの。でも、何もアクションを取らなかった・・・」
にわかには反応しがたい話だ。有馬はそっと彼女から視線を外した。仮にそういう兆しがあったとしても、現実はやはり冷徹な現実のままだった。
「私には時々、霊感が走るときがあるのよ。」
もうそれには触れず、有馬はただロビーからホテルの外に視線を投げた。道を行く人々の影は小さくなり、もう太陽はとっくに中空を過ぎて午後の日差しに変わろうとしている。ずっと忘れていたが小さく腹が鳴って、彼はあることを思い出した。

「まあ、こういう時こそ体調が大事ですよ。飯でも食いに行きませんか?食える時に食っとかないといつ食えるか分かりませんし、生きていてこそ飯が食えるってもんですよ」

有馬の言葉に力なく二人は頷いた。そう、命あってこその物種なのだ。有馬は素直に、今こんな状況でも空腹を感じることが出来る自分の若さと健康に感謝した。

本来なら、その日はラオス国境を越える日だったので、借上車はちゃんとキープしてあった。三人は車に乗り、運転手のおすすめを聞いてバンボーフエのおいしい店に行った。PCを使って色々な作業もあるので、Wifiが使えそうな店を特に見繕ってもらった。
「まあなんですかね、食欲出ないけどフォーくらいなら軽く食べられて助かるよね」
と須藤が力なく軽口を叩いた。
「これがシンガポールだと油が結構つらいかもね」
と有馬。すると田中の携帯が鳴る。話しながら、彼女はメモを素早く取り出し要点を書きこんでいく。澱みない一連の動作はいつも通りの「出来る女」にしか見えなかった。
「馬場所長は今大至急こちらに向かっているそうよ。何時になるか分からないけど、今日中のフライトでここに着けるみたい」
「まあ当然だよな」
と須藤が投げ捨てるように言う。
「あれだけ緊急時がどうこう口を酸っぱくして常日頃偉そうに言ってるんだから、肝心な時にはちゃんとしてもらわないとね」
有馬も頷いた。

馬場がホテルに到着したのは、その日の夜9時過ぎだった。彼は少し乱れた髪で集合場所の田中の部屋に入ってくるなり、何かを紛らわすように自分の手際の良さをまず滔々と述べ始めた。
「いやぁ、本当に半日で来れるとは思わなかった」
旅の疲れからか、彼の眼は充血している。3人が座るテーブルに自らも腰を下ろし、馬場はミニバーから取り出した小さなウィスキーをグラスに注ぎ、一気に飲み干す。物音すらない部屋の中、テーブルに置かれたグラスが不釣り合いに大きな音を立てた。
「ベトナム航空のフエ便が実に上手にコネクトしたんだ。ホーチミンでの乗り継ぎ時間は厳しかったが、無事にここまでたどり着けたのは奇跡だ。深田さんの手際の良さのおかげだ」
彼が務めて平常を装おうとしているぎこちなさは有馬にも分かったが、
(よりによって最初に口に出すのがそれかよ)
と彼は意地悪く心中呟いた。他の2人も返す言葉もなく沈黙していたが、何か違う雰囲気を察知したのか、やや居住まいを正して馬場は続ける。
「しかし、今回こんなことになってしまって、本当に残念だ。朝方田中さんから詳しく聞けてなかったが、今朝からの状況を教えてくれるかい」
まるで他人事のような言いっぷりだ。まとめ役は年かさの田中だが、実際に現場を見ているのは須藤と有馬なので、3人は適宜補足を入れながら、今日一日の出来事を彼に報告した。
「・・・というわけで、ご遺体は今市内の某病院に安置されています。ご遺族がここに到着する予定はいつですか」
「実は、青森のお父様がパスポートを持っていないので、今緊急で発行申請をしている。外務省の人道的配慮で、もうすでに発行されているはずだ。さっき聞いた話では、明日チャンギでシンガポールのご家族と合流して一緒にここに向かう手筈になっている。当日中か、遅くとも明後日には着くはずだ。我々も出迎えのアレンジを考えないといかんな」
有馬はふと、先日会ったばかりの彼の家族のことを思い浮かべた。正直、こんな形で再会するのは憂鬱でしかない。
「市長が3月に来られて、あれだけ期待がかかっていたのにこんなことになるとは」
馬場の視線がテーブルに置かれたウィスキーのグラスに落ちる。
「しかし須藤さんも有馬さんもよくやってくれた。特に有馬さんは体調も勝れないから、どうだ一旦明日でシンガポールに戻ってもらってもいいんだぞ。あまりメンタルに無理をすることはない」
しかし有馬は一旦乗りかかったこの出来事を後に残したまま、シンガポールに戻っても何も意味がない気がした。それに、帰ったところで家には誰もいない。誰かが周りにいて忙しくしていないと、おかしくなってしまいそうだ。
「いえ、私は全て片が付くまで、ここに残って対応します。一度乗りかかった船ですから」
有馬はきっぱりと告げた。
「そうか!やってくれるか」
馬場が奇妙に潤んだ目で力強く有馬を見る。しかし、有馬はこの何とも言えない違和感を、結局拭い去ることが出来なかった。なんか、この流れは何かがおかしい。少し道化じみたしらじらしさを感じた。
「いずれにしましても」
田中が引き取る。
「今日出来ることはもう何もありません。いったん寝て、また明日対応しましょう」
そしてミニミーティングは散会となった。

その晩、有馬たちは別なホテルに宿を取った。元のホテルで寝ることなんて出来やしないから当然だ。色々考えたが、今日一日の出来事で受けたショックのあまり、有馬は須藤に頼んで一緒に寝てもらうことにした。認めたくはないが、一種の子ども返りだ。
(いい年して一緒に寝てもらうなんて、まるで幼児じゃないか)
とも思ったが、部屋の入口から足が覗くイメージがこびりついてしまって頭から離れない。ホテルで自分の部屋に入ろうとするたびに、フラッシュバックが起きるのだった。一人で起きてるうちはいいのだが、何か悪夢を見たり寝覚めにパニックになりそうで正直怖かった。
「ああ、別に構わないよ。どうせツインルームだし」
と軽く須藤は請け合ってくれた。少なくとも表面上はそれほどショックも受けてないようにも見えるし、今日あれだけのことがあったのに、この人はどういう回路をしているんだろう、と有馬は不思議でならない。

ようやくのことで自室でシャワーを浴びてきた有馬は、それではお邪魔しますと言って須藤の部屋に来た。そして、「いやあ今日は本当に大変だったねぇ」と須藤が床に入りながら言うので、さてこれから少し話をして寝ようか、と思った矢先、なんと須藤はベッドに入るなり即効で寝てしまった。驚きの速さで鼾をかきだしたのだ。
(まずい、取り残されてしまったぞ)
有馬は少し後悔した。色々話しながらテンションを落ち着かせる計画は脆くも頓挫した。俺は今日、このまま本当に寝れるんだろうか。しかし、ホテルの部屋に一人でいるより、誰かがいびきをかいて寝ていてくれる方が寂しくなくていい。どうも寝れそうにないので、iPhoneを取り出して音楽を聴くことにした。

こんな時はなるべくクレイジーで激しいロックがいい。最初の1時間はXの「Blue blood」でどうにかなった。しかし須藤の鼾はなかなかのもので、さらに眠れなくなってしまった。
(これだったら自分の部屋に戻った方がマシかもな)
と考え始めた矢先、iPhoneのmp3ファイルリストに入っていた、Keith Jarrettの「Death and the Flower」が目についた。
(ああ、これは最近聞いてないな)
不謹慎だが、タイトルからしてなんとなく今の状況に似つかわしいような気がする。何度目かの寝返りを打ちながら有馬は苦笑した。
(じゃあ久しぶりに聞いてみるか)
有馬は選曲し再生にかけた。


Death And The Flower

何かの笛と民族的な打楽器で始まるのは異国の葬儀だろうか。やがて野太いウッドベースが響き、ピアノが切り込むように小気味よく参加してくる。チャイナクラッシュの音が鳴り、サックスがテーマを鳴らし始める。正直、色々な感情で混乱している有馬にとっては不思議と心地よかった。短調とも長調とも言えない色彩の中を、時に長調に揺り返すような演奏の波がやってくる。キースがよくやるように、確かこの曲もカルテットでの即興演奏だったと有馬は記憶する。今この曲が唄うのは、絶望でも希望でもなく、死という絶対的な0の質量に添えられたただ一つの赤い色彩。
そして23分はあっという間に過ぎた。

二曲目は有馬が好んで聴く「Prayer」だ。


Keith Jarrett – Prayer (1974)

最初の優しいモチーフから、曲はよりダイナミックに発展する。有馬は、この曲を聴きながら泣けてきてしまった。頬を涙が伝って枕に溜まり出した。爆発しそうな感情が、ピアノの繊細な響きの中に溶けていくようだ。曲名は「祈り」である。
(俺は誰に祈る?何を祈るんだ?)
自問自答するうちに、いつの間にか、有馬は短く深い眠りに落ちていた。

IV – Day 2

明くる日は予想通り朝から忙しい。手短に朝食を済ませた4人はホテルを出、まずは昨日まで泊まっていたホテルに向かった。忙しさにかまけて、きちんとチェックアウトし損ねていたので色々と清算をしなければならない。

見慣れた陰鬱なロビーに入ると、フロントの従業員は有馬たちをすぐ判別し、奥からマネージャーを急いで呼んできた。大きなカバンを手元にした馬場が歩み寄り、マネージャーに軽く頭を下げて田中と一緒に3人で何やら話し込み始める。

(調査員の通訳なしであの人、ちゃんと会話が成立してるのかな)

と、有馬はやや不安げな心持ちで見ていたが、やがて嬉しそうな顔を隠すように馬場はソファまで戻り、腰掛けて待つ有馬と須藤に小声で囁いた。

「良かったよ、何も迷惑料は要らないそうだ」

「迷惑料?」

有馬は思わず聞き返した。

「ああやってホテルの営業や後始末に迷惑をかけてしまったわけだから、謝罪して迷惑料をいくらか払いたいと伝えたんだが、何も要らないらしい。本当に助かったよ。事務所の金庫から緊急費用としてある程度のキャッシュは持ってきてはいたんだが、もし足りなくなったら面倒なところだ」

一体そこは喜ぶべきところなのか、正直有馬には分からなかった。お悔やみを告げるマネージャーの前で、あんな嬉しそうな顔をするなんて。もし払いたいのであれば、逆に出せるだけ払ってしまえばいいのに。

「あべこべに丁寧にお悔やみを言われてしまって。本当にベトナムの人というのは何というか同じアジア人として我々と近いメンタリティが・・・」

ああ、またいつもの話が始まりそうだ。有馬は最後まで聞きたくないのでトイレに向かった。

そうこうするうちに事態は刻々と進み、シンガポールを発った遺族が夕方に空港に到着することが決まり、所長と田中は彼らの出迎えのために昼過ぎから空港に向かうことになった。また東京本部から、遺体は現地で火葬にはせず日本まで連れて帰りたい旨遺族の意向が伝えられたので、有馬は保険会社に国際電話を入れ、旅行保険を使って遺体搬送を行いたい旨相談をした。

「概算ですが、ベトナムから日本の東北地方ですと保険上限の200万円では足りず追加費用が必要になります」

内訳を詳しく聞いてみると結構な費用だ。

「ドライアイスを使い、陸路ハノイの空港に運んでまたそこから特別な貨物として飛行機に積み込んで成田まで送るんです。そのあと、成田からは特別車を仕立ててご実家まで運ぶわけですから、どうしてもそれなりに費用が掛かります」

「そもそも、今回のようなケースでは保険は適用になるんですか」

「それは詳細を確認してからのことになりますが、一般論として自死の方の場合は保険が下りないと思っていただいた方がいいと思います。またどうしても費用が高額になるので、正直な話、経済的な理由から現地での火葬を選ぶ方も一定の割合でおられます」

なるほど、と有馬は思った。世の中には自分の知らないことがたくさんあることだ。しかしこのような情報は出来ることなら知ることなく過ごしたい。いずれにせよ、ことは有馬が軽々に判断できることでもないから、上司なり本部なり判断を仰がねばなるまい。礼を告げ電話を切った有馬は、必要な書類をファックスで保険会社に送付してから、今聞いたことを簡単なメモにまとめてPCに保存した。

その日の夜遅く、田中が帰ってきた。本部で三木と一緒に働いていた滝本も一緒だ。彼は旅行会社からの出向なので、今回日本から遺族がベトナムに来るまでのアテンド係に指名されたのだ。久しぶりに有馬は滝本に会い、なんだか懐かしくなった。彼とは1年間の東京本部時代、部署は違えど何度か飲みにいったことのある間柄だ。
「滝本さん!」と有馬。
「おう、須藤に有馬。今回は本当に大変だったなぁ。二人とも大丈夫か?」
滝本は小兵ながらボディビルで鍛え上げた分厚い胸板を持つ俊敏な男だ。心強い応援が来たものだ。
「あれ、所長は?」と須藤。
「もう部屋に上がったわ。今から少し4人で飲みましょう」
二人は心なしかやや興奮しているように見えた。

「もう、あの野郎は最低だよ」
4人が席についてビールに口をつけるなり、滝本は吐き捨てるように言った。
「大体去年一年間、三木が本部にいる頃からおかしいとは思っていたんだ。東京で所長会議がある度に三木の席に来て、ハッパなのかなんか知らんが色々文句を言われていてもうサンドバッグだ」
その噂は有馬も違うルートから聞いてよく知っていた。来年シンガポールに来る3人は大変だ、ともっぱらの評判だとも。早くも二杯目に突入する滝本は、
「俺は、あんな奴の言うことは適当に聞き流しておけと再三あいつに言ったんだ。しかし三木はお前たちも知る通り本当に律儀ないい男だろう?まさかこんなことになるなんて」
彼は涙ぐみながら続けた。
「俺は成田であいつのお父さんに空港で会った時に、思わず抱き合って泣いてしまったよ。お父さんは海外になんか一回も行ったことがないのに、こんなことで初海外だぞ。付き添いで来た市長も横で泣いてるんだ。そしてシンガポールに着いたら着いたで、今度は奥さんと子どもさんが待ってるわけだ。もう、誰もが現実についていけなくて茫然としている有様と言ったら」
3人は頷きながら聞き入るしかない。
「俺はそんな4人を抱えて。一緒に来た事務局長は、シンガポールで陣頭指揮を取るといって降りてしまうし。こんな辛いアテンドがあるかね」
一気に語り続けた滝本は、少し落ち着いたのか一呼吸ついた。
「で、私は所長と一緒に空港の出口で、滝本さんと市長たち4人が到着するのを待っていたわけなんだけど」
と田中が続ける。
「入国出口で5人が現れた途端、所長は最初に何て言ったと思う?」
「何て言ったんです?」
思わず有馬はオウム返しのように訊いた。
「あの人、真っ先に市長に駆け寄って、泣きながら「市長、こんなことになってしまいました!申し訳ございません」とか言ってんのよ」
その場面を思い出して、滝本の怒りがさらに増加したようだった。
「その間、俺もご家族も放置だぞ?本当になんなんだあいつは」
滝本は乱暴にビールのグラスを置いた。
「真っ先にご家族に頭を下げて謝罪するのが筋だろう!パワハラの張本人が、どの面下げてしれっとそんなことが出来るんだ」
有馬も須藤も、聞きながら怒りがこみ上げてくるようだ。
「まあしかし、それが官僚という人種なんだろうな。宇宙人みたいな奴だよ本当に。俺になんかお疲れも何も最後まで一言の挨拶もないんだぞ」
滝本は続ける。
「で、とにかくご対面だっていうんで皆で病院に行ったんだが、これが手配がきちんとされてなくて霊安室に行くまでが一苦労だ」
「病院側は時間外は対応できません、の一点張りなのよ」と田中。
「しかしここまで来たらまずは対面だろう。あの野郎がなんだか英語で交渉するんだが埒が開かないんだ。仕方がないから、奥の手を少し使ってな」
と、滝本は古風にも人差し指と親指で丸を作る。それがあまりに真面目な彼の顔とミスマッチ過ぎて、有馬にはとてもシュールに映った。
「夜の病院の霊安室なんかたまったもんじゃないぞ。そして三木と対面したら、あいつはどうしたと思う?」
有馬は思わず「どうしたんですか?」と尋ねた。
「するに事欠いて、真っ先に奇声を上げてその場に倒れ込みやがった!」
須藤と有馬は驚くというよりは、あきれて物が言えなくなってしまった。
「あいつがそんなんで、ご家族は一体どうすればいいんだ!変な気をつかわせて、ご家族はただ3人で抱き合いながら声もなく泣いているだけだよ。あんな奴、来てくれない方がよっぽど良かった」
滝本はもう何杯目か分からないビールを呷りながら言った。
「とにかく、あいつはもう絶対に許せん。明日締めあげてやる」
3人はただ黙って顔を見合わせるしかなかった。

V – Day 3

有馬には不思議な癖がある。彼は、何か緊急事態や突発的な出来事が起きるといつもの憂鬱な性格が一変して、活き活きとして多動的になるのだ。彼はこのフエに着くまで灰色の日常を過ごしていたはずなのに、今や世界は彩色に満ち、彼は目の前のやらねばならないタスクに熱中し始めた。

次の日の朝も、湿気こそ強いが雲一つない晴れた朝となった。有馬は須藤、田中と合流して朝食を取ることにした。

「・・・じゃあ、遺族が来ました、遺体を引き取ります、そして帰りますって簡単にはいかないわけですか」
「当たり前じゃない」
田中がオレンジジュースを飲みながら言う。
「ここの警察はあくまで自殺、他殺、あるいは突発事故の色々な可能性から検証をして、事件性がないことを確認しなければいけないんだって。で、病院側でも検死証明書を出して、オフィシャルに死亡が確認されて、そこで初めて業者さんが遺体搬送の手続きに入れるわけ」
「なるほど、思ったより面倒なんですね」と有馬。
田中は続ける。
「だから、今日は時間がいつになるか分からないけど、地元警察の事情聴取と病院での聞き取り調査が入る予定になってるわ。あと昨日あった連絡だと、ホーチミンの日本大使館の人がヘルプに来てくれるみたい。」
「ああ、それは助かりますね。僕らで出来ることなんか多寡が知れている」
「その間、関係者のホテルをどこまでキープするか、予約をリリースするかまさに臨機応変に対応しないといけないわ」
田中は強い目で二人に言った。
「さあ!考え始めたら負けよ。余計なことは考えないで、今日一日は目の前のことだけ集中してやるの!行きましょう」
3人はいつも以上に盛大に朝食を取り、会場を後にした。

3人が朝食を取ってすぐ、ハノイの日本大使館に勤めるK一等書記官から馬場の携帯に連絡が入り、ベトナム語の専門家である二等書記官と一緒に昼前にフエに到着する旨連絡があった。有馬たちが知らないうちに事態は進行しており、今日の午後にフエ市警察と病院と合同で、日本大使館職員も参加した合同の検討会が行われるらしい。

その場で警察から色々質問するので、それで問題なく自殺であると認定されれば死亡証明書が発行され、それを日本大使館の領事部で受領することにより手続きが完了することになった。
「思ったより早くここから帰れそうだな」
と、馬場は有馬たちに言った。とりあえず午後2時に病院に集合することになったので、有馬たちはご遺族を連れて、ランチの場所の手配と現地までの交通を確保することになった。

12時前になり、三木の父親と奥さん、娘さんの3人がロビーに降りてきた。ずっと付き添っている滝本も一緒だ。有馬と須藤は改めて3人に挨拶をする。
「今回は我々がいながらこんなことになり、誠に申し訳ありません」
3人は無言で頷いた。すると、その後ろからむつ市長の佐藤がだるそうに姿を現した。
「佐藤市長・・・お久しぶりです」
「有馬さん」
互いに見つめていたら涙がにじんできた。
「この前活動支援してくれた時は、まさかこんな形で再会しようとは思わなかったね」
佐藤は頭を振りながら有馬の肩を叩いた。
「詳しい話は昨日田中さんから聞いたよ。本当にお疲れ様」
有馬はまた泣けてきてしまった。
「さあ、三木君を一刻も早く日本に連れて帰りたいんだ。頑張ろう」
じきマイクロバスが到着し、有馬たちは病院に向け出発した。

お昼は老舗とおぼしきベトナム料理の店になった。暑さと長旅の疲れが抜けず、皆食が進まない様子だった。食事をするうちに、三木のお父さんがぽつりと漏らした。
「今回、こんなことになって、皆さんに迷惑をかけて本当に申し訳ない」
有馬たちは思わず動きが止まってしまった。
「あの子を強く育てるために厳しく躾けてきたつもりでしたが、なんとも弱いところがあったようでガッカリしています」
「いやいやお父さん、そんなことはないですよ」
市長が横から父親の肩をつかんだ。
「彼はこれからこっちで頑張ろうという矢先にこんなことが起きたんです。これは事故なんですよ」
誰も顔を上げる者がいない。
「もうすぐ日本に戻れますから、気を強く持ちましょう。もう少しの辛抱です」
父親は力なくうなずくしかなかった。そしてその間、馬場は下を向いたまま何も言わずに黙っていた。

ランチが終わって、車が出発するまで少し時間が空くようだ。有馬は冷房で固まった体をほぐそうと、裏の駐車場に向かった。すると、そこに佐藤市長が所在なげに日向ぼっこをしているのに出会った。皆、考えることは同じらしい。
「ああ有馬さん」
市長は片手をあげた。彼は有馬のようなペーペーにも常に低姿勢で接してくれる。
「今回の件だけどね、あなただから訊くけど」
「はい」
「事故っていう可能性は、本当に考えられないのかい?」
有馬は佐藤を凝視した。
「いや、先月もシンガポールに来て、あなたと一緒に色々回ったじゃない。あの時も話したけど、彼も、本当に希望を持ってこっちに来たに違いないんだ。私には、どうしても彼が自殺をすることが信じられないんだよ」
「それは、私も正直、信じられない思いですが」
「ほら、こっちのホテルだったら物取りだってありうるじゃないか。どこか窓が空いていて、カネや貴重品を取りに来た盗賊と出くわして・・・」
佐藤が想像をたくましくするのも、分からなくはない。それ位、残された者には疑問しか残らないのが今回の件なのだ。
「いえ、恐らくそれはあり得ないと思います」
「なぜだね」
「彼が亡くなっていた時の姿勢が不自然過ぎるからです。他に外傷もなく、外部からの侵入者がわざわざあんな手の込んだ輪っかを使って、ああいう体勢で彼を放置していく理由が見当たりません。」
「そうか・・・」
有馬は、この人にはきちんと伝えておかないときっと後悔すると思った。
「市長、実は彼には理由はないわけではないんです」
「というと?」
佐藤の目が大きく見開かれる。
「彼は赴任する前から、うちの所長の馬場さんに色々きつく言われていたんですよ」
「ああ、それなら別に、指導のようなものだからいいではないかね。私は馬場さんとは昔からの友達だから、ぜひ鍛え上げてほしいと伝えたこともあるよ」
「いえ、そういう鍛えるとかいうレベルではなく、結構なレベルのハラスメントですよ」
そして有馬は、自分が知ってる範囲で三木に何が起きていたかを市長に話した。
「そんなことが・・・信じられん。本当なのかね」
「いずれにしても、何があったかはこれから明らかになるでしょう。もうじき事情聴取が始まりますから、バスに乗りましょう」
有馬は佐藤を抱え込むようにしてレストランに戻っていった。

レストランに戻ると、背広姿の男が二人、馬場と話し込んでいるのが見えた。
(あれが大使館の人かな)
と思っていると、有馬の姿を認めたのかスマートにこちらに近づいてくるのが見えた。
「ああ、あなたが有馬さんですね。私はこういう者です」
そこには在ハノイ日本大使館の一等書記官兼領事、Kと名前が書かれていた。
「この度はこんな遠くまでご足労いただき大変痛み入ります」
有馬は丁重に挨拶した。
「いや、邦人保護は大使館の第一任務ですから」
細い眼鏡の奥でK氏の眼光は強くまたたいた。
「2時からの打ち合わせですが、有馬さんにも色々と聞かれることがあろうかと思います。この同行したN書記官はベトナム語が専門なので、きちんと通訳しますからご安心下さい」
有馬はN書記官にも挨拶する。
「この度は大変なことですが、我々としては今日中に先方のベトナム側との折衝を全て完結し、明日には遺体搬送に着手する予定ですのでそのつもりで」
有馬はよろしくお願いします、と頭を下げた。

X

バスの中でも、まだ有馬の怒りは収まりそうになかった。
(俺は、何に怒っているのだろう)
しかしとりあえず、これでフエで出来ることは一通り終わったことになる。あとはご遺族の3人を空港まで送り届けて、そして有馬たちもシンガポールに戻るのだ。本当に長い4日間だった。

この後空港には午後3時までに到着すればいい。さきほど馬場が漏らした「どうだ、ご遺族にフエの街を見てもらっては」という提案は、もちろん全会一致で却下された。どこの誰が、この状態で街中を観光して回りたいと思うのだろう。本当に不思議な神経だ。自分ならこんな場所、一刻でも早く離れたいとしか思わない。

「こういう出来事があった街だから、少なからず縁があるのだから見て回るのも・・・」
しかし滝本が睨みつけて、馬場はようやく静かになった。

バスは道路をひた走るが、まだ1時間ほど余るので、滝本の提案でどこかのカフェで小休止を取ることにした。滝本はドライバーと英語で相談している。やがてバスは進路を変え、やがてフエの街中に戻ってきたのが車窓から見て取れた。

「今日もやっぱり暑いねぇ。暑い日はビールに限りますな」
須藤が言う。
「ビールといえばバーバーバーですな。」
有馬がおもむろに唱和する。

やがてバスは停車し、滝本の「着きましたよ。降りて下さい」という声で、一斉にぞろぞろと全員バスから降り始めた。車はどこかのホテルの駐車場につけていた。一行は、一列縦隊になってホテル横にある店の入り口に向かう。

先行する滝本の後をご遺族と有馬たちが続く。やがて「あら、おしゃれなバーじゃない」と前を行く田中が呟き、続いて須藤と有馬もドアを抜けてバーに入る。

しかしその途端、意外な展開に二人はその場に固まってしまった。
「あのバーだ…!」
滝本が最後に有馬たちを連れてきたのは、奇しくも事件が起きる前の晩に有馬たち3人が過ごした、あのホテルのバーだった。

有馬は思わず須藤と顔を見合わせてしまった。
(こんなことってあるんだろうか)
昼の光が注ぎ込んでやや明るくなっているが、シックでひんやりとした雰囲気は先週と全く変わっていない。カウンターの奥から目ざとく須藤と有馬の姿を見つけたバーテンダーが、「Oh, you guys came here again!」と二人に握手を求めてきた。

これまで有馬の人生で、時としてドラマチックなことがなかった訳ではないが、こんなこともありうるのだろうか。何かの間違いとしか思えないくらい偶然に、二人はこのバーに戻ってしまっている。前回は亡くなった三木と一緒に、そして今回は彼の家族と一緒に。須藤も感じていることは同じらしく、頻りに顎の無精ひげを撫でつけている。

「何にします?」とバーテンダー。
「じゃあ…バーバーバーを二つ」

やがて皆、思い思いの場所に座り始めた。バーテンダーは須藤と有馬にビールのグラスを運びながら、有馬の眼をplayfulに覗き込んでこう告げる。

「You played the piano pretty well last time. Why don’t you play it again today? There is no one around here so I want you to play it, if you like.」

有馬とバーテンダーの眼が合った。有馬は思う。自分が今話しているこの男は、一体何者なんだろう。この目の向こう側に違う誰かがいるんだろうか。

須藤と有馬は、ビールのグラス越しに向き合った。
「・・・三木さんに」
「三木さんに」二人で、小さな声で乾杯をする。
それは、有馬にとってささやかな別れの儀式だった。

ビールを飲み干すとすっと弾かれるように有馬は立ち上がりピアノに向かう。蓋を取り、鍵盤を覆う布を取り去り、座り覚えのある椅子にやや前かがみに腰掛ける。
まるでこの前の夜に戻ったかのようだ。

もし戻れたとしたら、
戻れるとしたら、有馬、
お前は彼に一体どんな言葉をかけるんだ?

ピアノは弾きなれたこの曲を奏で始めた。

The long and winding road that leads to your door will never disappear
I’ve seen that road before
It always leads me here
Lead me to you door

The wild and windy night that the rain washed away has left a pool of tears
Crying for the day
Why leave me standing here
Let me know the way

Many times I’ve been alone and many times I’ve cried
Anyway you’ll never know the many ways I’ve tried

But still they lead me back to the long and winding road
You left me standing here
A long long time ago
Don’t leave me waiting here, lead me to your door

どうすればいいか教えてくれ。
Let me know the way.
途中から有馬の涙は止まらなくなった。鍵盤にいくつも涙の雫が落ちていったが、しかし有馬は曲を弾くことを止めず、涙の向こう側の誰の顔も見えなかった。もう、何がなんだか分からない。
(そうだ。俺は多分、何もできなかった自分に対して怒っていて、その怒りを他人に投影しているだけなんだ)
短いこの曲を弾き終えても、有馬はしばらくそのまま動けない。するといつの間にきていたのか、三木の奥さんが有馬の横に立っていた。不思議そうな顔をした娘さんも一緒だ。有馬が涙に濡れた顔を上げる。

「ピアノ、弾けるんですね」

彼女はまるで、一輪の花のように破顔した。

XII

オフィスに久しぶりに帰ってきた。

いつもの守衛にいつものように挨拶をするが、やはりいつものようにはいかない。エレベーターのドアが閉まると、すぐに押さえつけられるような下向きの重力を感じ、やがて31階のオフィス入り口に到着する。1週間ぶりの職場は、まるで何も変わっていないように見える。少なくとも一見したところは。

今日は土曜日だから事務所には誰もいないはずだが、しかし有馬たち3人がいったん戻ってくると聞いて、次長が出勤していた。一通り、3人で状況を説明する。詳しい状況はすでに共有されているのだろう、言葉少なに話を聞いていた次長は大きく頷き、とにかく家に帰って体を休めるように言った。

(荷物をとりあえず置かないと・・・)

有馬が出張で借りた業務用PCやカメラ等一式を置くために、一番奥側の自分の席に戻ると、真向かいにある三木の席に思わず目が行った。そこには、大きな花瓶に花が活けられて飾られている。

(ああ、なんて日本的なんだろう。まるでドラマの中の教室みたいじゃないか。)

有馬にはそれがあまりにも陳腐に見えて、しかし却って新鮮な気がしないでもなかった。(そうだ、彼のパソコンのログを取っておかないと・・・)
何か事前に兆候がなかったのか、パソコンで確認を行うように言われていた有馬は、ほんの1か月前まで自分の席だった三木の椅子に座り、パソコンを起動しようと机の上のデスクトップ端末に目をやって、そしてふと手を止めた。

パソコンの躯体に、絵葉書のようなものがテープで貼られている。

「どんなにつらくても
 ぼくはやめないぞ、
 きっとこらえるぞ と、
 かま猫は泣きながら
 にぎりこぶしを 握りました。」

宮沢賢治「猫の事務所」より

一瞬遅れてそれが何であるかを理解した有馬は凍り付いてしまった。

そこには、まるで三木のような大きな体の猫が、スーツを着込んで、涙を流しながら歯を食いしばって耐えている姿が、絵葉書にコミカルに描かれていた。

有馬はしばらくそれを眺めていた。誰もいないオフィスの中、パソコンを起動することも忘れ、有馬は呆けたように、長い間言葉もなくじっとその絵葉書を眺め続けた。

有馬がオフィスからコンドミニアムに戻ると、やはりそこには誰もいなかった。仁美は福島に帰ってしまったままだ。スーツケースを置き、洗濯物を洗濯機に放り込んで温いシャワーを浴びる。100平米を超える部屋に一人でいると、この数日間の疲れがどっと押し寄せてくるようだ。

(あれは何かの夢じゃなかったんだろうか)

と思い込みたい自分がいる。しかし、現実はあくまで現実だった。
誰かに今の気持ちを話したい。
理解してもらいたい。
慰めてもらいたい。
しかし、有馬には誰もいなかった。
彼はずっとそうしながら生きてきた。
そしてこれからも、多分そう生きるだろう。
彼は常に凍り付いた時間の中を生きていた。
大丈夫、こんなことには慣れっこだ。
独りごち、飲みかけのビールをまどろみの中飲みほす。
苦い、鉄の味がした。

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