2011年3月11日地震の個人的手記

役人時代
A bit of my personal experience on 2011.3.11
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僕は小心者なので普段から自分なりに災害に備えてはいますが、3.11の時は本当に寝耳に水というか、不十分な備えの中で色々対応しなければならず様々な反省点が生まれました。このブログは僕のライフログとして色々な記録を残しておきたいので、今思い出せる限りでこの大地震の経験をメモとして綴ってみたいと思います。

今まで経験したことのない地震

JICA東京本部でフィリピン向けのODAの仕事をしていた頃、例の2011年の大地震が発生しました。僕は当日麹町のJICA本部にいましたが、実はその2日前に1週間のシンガポール帰省から帰ってきたばかりだったので、まだちょっと休みボケを引きずっている状態でした。なんかフラフラするなあ疲れているのかなあと思ってたらそれが初期微動だったわけで、気のせいかとしばらく足元を見ていたら、いきなり強い揺れが襲ってきたわけです。
「地震だ!」
と誰かが叫び、皆が一斉に机の下に避難します。僕は
(まあどうせいつものことで少し経てば収まるだろう。この新しそうなビルが潰れるわけがない)
と多寡をくくってしばらくパソコンをポチポチやっていましたが、ふと視線を上げるとフロア中の職員は一人残さず机の下に隠れて誰も見えません。広いフロアでまだ椅子に座っているのは僕だけになっていました。
(いやあ、学歴エリートの集団はさすが違うなあ)
と変な感心をするうちにも、強震にオフィス家具や看板が揺れまくります。ここまで揺れてから慌てて机の下に隠れるのも業っ腹なので、揺れは強まる一方ですがお構いなしに、パソコンで地震速報と麹町ビルの建築年を確認します。座っている椅子と机とパソコンのディスプレイがガタガタ言う音が、非現実的な響きをもって僕に迫ります。

可笑しかったのは、その時、背中合わせに座ってて机の下に隠れた当時の上司が、僕がビルの情報を確認しているのを見て「このビルは何年築!?」と叫ぶので「2008年です!」と教えてあげたことです(笑)。ワンフロアでこれだけ吹き抜けになっている正方形の大きなビルなので、万一上から何か落ちてくる時にはもうオシマイだと思い、割とのんきに構えていました。揺れは3分以上続いたように記憶しています。大きい余震がもう一回ありましたが、しばらくすると落ち着いてきました。よかったよかった。ふと見ると、上司は子どもの携帯に「無事だった?」と卓上の電話から連絡をしています。それを見た僕も速攻で家族の職場に電話し、無事を確認しました。この後電話がつながりにくくなったので、この迅速な対応は正解でした。

それから僕らはずっと最小音量でテレビを眺めながら仕事を続けましたが、打ち合わせを1本終わらせてから見た仙台市の津波(川を遡上して水田を飲み込んでいく映像)を見て、(これはまずいことが起きている)とその時初めて実感しました。

その時家族は恵比寿の会社で仕事をしていたので、余震による二次災害でもあったら大変だと思い、とにかく歩いて彼女の会社まで迎えに行って、それから家に一緒に帰ろうと思いました。僕の理解では、大地震の二次災害は、余震に伴う家屋倒壊か地震によって引き起こされる大火事です。いずれにしても何を置いてもまずは合流し行動を共にすべきだと思いました。麹町のオフィスを出たのは、16時半くらいだったと記憶しています。職場を出る前に「今から歩いて家に帰るねー」とのんきなメールが来たので、「危ないから会社で待機して俺が来るのを待て!」と怒りのメールを送って、返事を確認してから建物を出ました。

その日の夕方、都心はひどい渋滞だった

今でも、四谷の土手越しに見るその日の夕焼けが綺麗だったことを思い出します。JICA本部を出ると、外国からのゲストをJICA広尾かどこかに運ぶバスがちょうど停車していて、運転手さんに聞いたら職員は乗っていっても良いということだったので、便乗して恵比寿方面を目指すことにしました。こんな時に車で移動できるのは有難いことです。

ところが、この車も四谷の駅前に差し掛かったところで酷い渋滞にはまってしまい、駅前の橋のところから何分待っても一歩も進めません。これは歩いて行った方が早いと諦め、お礼を言ってバスを下ろしてもらって恵比寿まで歩くことにしました。赤坂御用地の横を青山通りに抜け、渋谷まで向かって途中から恵比寿に南下するルートです。

なるべく建物が密集していない大きな道を選びました

僕は学生時代に都心部をよく散歩していて地理を熟知していたので、とにかく余震で道路脇のビルが倒壊してきてもなんとかなりそうな、大きめの通りを選びながら歩いて行きました(頭の中には高校時代に見た阪神大震災の風景が念頭にありました)。途中に公園も多いので、万一火事になっても煙に巻かれずに済みます。

今地図で見ると6km程度ですが、当日は歩道にたくさんの人が溢れかえっていたので、恵比寿まで結局2時間近くかかったように記憶しています。革靴で歩くには少し骨が折れる距離でした。

無事家族をピックアップ、そして自宅まで

渋谷の手前から道を曲がって、渋谷区東方面に向かうとようやく余裕が出てきました。(何か手土産を持っていかないとまずいだろうな)と思った僕は、道路沿いのコンビニに行ってもめぼしい食べ物は売り切れ状態だったので、やむなく並木橋交差点近くの薬屋で栄養ドリンク24本入りを買って差し入れに持って行きました。今でも、何でそれにしたのか自分的にナゾです。もっとお腹に貯まるものを買えばいいのに。

家族の会社に着くと、すぐに同僚の方が呼び出してくれて無事合流することが出来ました。こうなると少し心配要素が減ってほっとします。あとは、無事彼女を家まで連れて帰ることがミッションです。

渋谷から原宿を経由して新宿へ、そして青梅街道から中野に帰るルートです。これも今地図で確認すると、9km近い道のりでした。途中変な人に絡まれそうになったり(自分からぶつかってきて自分からキレ始めた)、足が疲れたら休憩したりで3時間近くかけてようやく家に辿り着きました。でもガスが止まっていて、お湯が使えないのでお風呂に入ること自体は出来ませんでしたが、それでも被災地を思えば文句は言えないと思いました。他にはもっと長い道のりを歩いて帰宅した人も多いのです。その晩は水シャワーを頑張って浴びて寝ました。

余震でお腹いっぱい

その晩も大きな余震が3~4回続いて、東京や東北だけじゃなく長野や他の地域でも震度5とか6とか言っていて、本当に一生分以上の地震を浴び続けました。幸い、東京は本震以外は大きな揺れは少なかったので、住んでいた近所にも特に被害はなく、次の日にはガスも復旧して普段通りの生活が営めるようになりました。

でもテレビを見ていると、これが本当に日本に起きていることなのかと目を疑うような衝撃的な地震の映像が流れています。そのうち緊急速報で福島県浜通りの原発が上手に冷却されていないというニュースも入ります。(これは避難しないとまずいかな?)という考えが頭をよぎります。なんだか、映画の中にいるようなカタストロフが醸成されつつあるようです。

チェルノブイリの時の話

話はここで少し遡るのですが、僕が小学校の低学年の時にチェルノブイリの原子力事故が起きました。当時はニュースでも大々的に報じられ、僕の学校では「雨に濡れると頭が禿げる!」とみんなが騒いでいて、学校帰りに少しでも雨に濡れるととても嫌な気分になったのを覚えています。

その頃のある晩、ニュースを見ながら父親とこんな話をしました。
僕「でもチェルノブイリみたいな原子力発電所は福島にもあるんでしょう」
父「浜通りにあるなあ」
僕「ここから何キロくらい?」
父「50kmぐらいだな」
僕「チェルノブイリみたいになったらどうなるの?」
父「すぐ避難せんといかんなあ。放射能は風に乗ってすぐ来るなあ」
当時の僕は多感な少年だったので、チェルノブイリのニュースみたいに防護服を着た人々が歩き回るところを自分たちが逃げ惑う絵まで浮かびました。チェルノブイリの被害は百キロ単位での話だったので、50㎞なんてどれだけ近いのだろうという話でした。

それから20年以上が過ぎ、幼かった僕の妄想は現実のものとなりました。長生きはするものだと思いました。

次の週、何かが麻痺している日本国民

土日を通して、津波による被害が甚大なためにちょっとやそっとのことでは驚かなくなっていましたが、福島の原発の状況は悪化の一歩を辿っていました。テレビも緊急特番が流れっぱなしで、民間企業のCMは一切なくなり、合間に流れる薄気味悪い公共広告機構の「ぽぽぽぽーんCM」が一層不気味さを掻き立て続けています。

でも週明けは仕事なので、こんな時でも出勤しないといけません。直前にシンガポール帰省で一週間休みを取ったばかりなのでなおさらでした。家族に「シンガポールに避難する?」と聞きましたが、東京に残ると言います。僕らは状況を見極めながら、臨機応変に対応するしかないと思いました。

時系列はきちんと覚えてないのですが、次の週すぐに水素爆発が起きて、市民は出来るだけ建物の中にいるように指示があった日がありました。僕は仕事があって外を歩かざるを得ないときだったのですが、その時していたヘッドホンから絶えずガリガリ音がしていたことを思い出します。あれは多分原発から飛来した粉塵に含まれた放射能だったのでしょう。また、帰宅すると鼻血が出る日があったので、これはそういうことだなと身をもって実感したものです。もう少し酷くなったら逃げ出さないといけないなと思いました。

こんな時でも電車はきちんと動いていて、職場の人々も普通に出勤してきていました。僕は自分なりに、中央省庁に近いこの職場でこんな感じだったら、まだ一部で言われているようなとんでもないことにはなっていないんだろうと勝手に思って、しばらく事態の推移を見守ろうと考えていました。

テレビカメラで捉えた水素爆発

しかしその週の水曜か木曜だったでしょうか、事態は一気に緊迫度が高まります。福島中央テレビのライブカメラが捉えた望遠映像で、福島第一の建屋が水蒸気爆発か何かで吹き飛ばされるショッキングな映像が流れたからです。

日本のメディアでは温度低めに伝えていますが、これはどう見ても緊急事態です。英語メディアを色々読むと、双葉町から300km圏内はどうもまずそうな雰囲気すらしてきました。ここで僕もハラを決めました。「よし、避難しよう」

といっても職場放棄して避難するのも難しいなと思ったので、段階的に状況を見据えながら避難することにしました。まずはその週の週末、関西方面に宿泊しようと思い大阪に二晩ホテルを取りました。週明けは春分の日なので、少なくとも数日東京から離れることができます。まだ東海道新幹線は普通に動いていたので、それに乗って土曜の朝関西に向かうことにします。週明けは数日有休をとり、福島の原発に何が起きても対応できるようにしました。

もし最悪のケースとして首都圏が放射能汚染で立ち入れなくなった場合、関空からシンガポールに出国するつもりで身の回りの貴重品を色々まとめて新幹線に乗りました。僕は今でも、家に置く荷物は最小限(ミニマリストですね)にしていつ何があっても対応できるようにしています。変に貴重品や捨てられないモノがあると、いざという時に行動が鈍るので。

幸い、その週の金曜に郡山の実家にいた家族が全員東京に一時避難してきていたので、彼らに僕のアパートを使ってもらって、僕らはさらに関西に行きます。こうすれば不在時の部屋の管理も万全だし、お互いウィンウィンです。

関西は別世界だった

Kyoto station platform

僕らは土曜の朝、東京を出て京都に到着しました。こっちはもう、一週間近い各種報道で神経が過敏になっているので、京都駅のホームで吸い込んだ空気は本当にうまいと感じました。思い込みって本当に不思議です。

久しぶりの関西なので、レンタカーを借りて四国に行ったり京都市内を巡ったり、色々満喫して気分転換を図りました。そのうち、どうやら原発もより酷い状況にはならず、注水も不完全ながら始まり不安定の中に安定する兆しが見え始めていたので、残りの予約をキャンセルし(東横イン万歳)、新大阪始発ののぞみ号で連休明けには東京に戻りました。

原発問答

原発でもう一つ思い出すのが、大学時代に仲が良かった同級生のお父さんが某電力会社勤務で、彼も原子力発電について色々知っていて、原発事故なんて起きるはずがない、と何かの話の流れで僕に妙に力説していたことがありました。
僕「人間のやることに完璧なことなんてないだろう。何かの手抜かりで事故が起きたっておかしくない」
友人「これだから何も知らない一般人は困るんだ、原発でどれだけ多重に事故防止策を講じているのか全然知らないだろう。あれだけ厳重に対策しているのだから、日本で原発事故なんてありえないよ。ウチにパンフレットがあるから読めばいい」
僕「そうかねぇ、起きるわけがないならなんでチェルノブイリやらなにやら事故が起きているのかねぇ」
友人「あれはやり方が悪いからだ、現場がきちんとマニュアル通り対応しないからだ」
僕「(そこの話をしているんだがねぇ)…」
僕が直観的に感じた違和感が現実のものとなって起きたことを鑑みると、やはり人間の考えることやることには限界があると思わざるを得ません。

東京はしばらく小康状態

3/21の週、不安定な中にも安定が見いだせた頃、ようやく東京にも継続して住めそうな感じになってきて安心しました。その後4月にマニラ出張が控えていたのでどうなるか心配でしたが、とりあえず余震もそう大きくないし、急にシンガポールに帰国するというドラスティックなオプションはとらないことにしました。

以上、今思い出せることをつらつらと書いてみました。
(了)

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