【小説】序章:Deep in the forest

Chapter 0 - Deep in the forest小説: Death and the flower
Chapter 0 - 深い森の中で

「どんなにつらくても
 ぼくはやめないぞ、
 きっとこらえるぞ と、
 かま猫は泣きながら
 にぎりこぶしを 握りました。」

宮沢賢治「猫の事務所」より

※この作品はフィクションであり、
実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。


もくじ

序章
第一章 Fukushima
第二章 Tokyo
第三章 Singapore
第四章 Death and the flower
第五章 Rebirth
終章

僧院の朝は早い。

まだ太陽の気配すらみえない朝4時、僧はおもむろに起床し、洗顔をすませ、そして糞掃衣を身にまとう。窓の外はまだ暗闇のとばりに包まれている。

ここミャンマーの最大都市ヤンゴン、その郊外にあるモービーには広大な森が広がり、奥まった一角を切り開いてこの僧院は開かれている。僧院の敷地は、最も近い幹線道路から1㎞ほど小道で入った場所にあり、周囲にはほんのわずかな人家が点在するのみである。僧たちはバンガローのような小屋を各自に与えられ、朝の鐘が鳴ると、おもむろに一人また一人と小屋を後にする。朝の勤行に向かうのだ。

monks in the morning in Myanmar

彼らは、夜更けの暗がりの中を経行(歩行瞑想)しながら法堂へと向かう。雨季のミャンマーは悪くするとコブラやサソリが物陰から這い出して来る。しかし歩みは決して急いではならない。立位のまま片足を持ち上げ、前に送り、着地する感覚をマインドフルに認識しながら歩く。そして、同時に二つの動作を行ってはならない。右足を上げ、下ろす一連の動作が完結して、ようやく次に左足を上げる動作に移る。

この一連の動作をできる限り緩慢に行うことで、一つ一つの動きを念じ、味わいながら歩くことになる。僧は、決して怠ることなく、焦ることなく常に己を観照せねばならない。
普通なら5分もかからず歩けるような距離を、じっくり20分もかけてこのような内面作業を行うことになるのだ。

ようやくのことでホールに辿り着く。既に法堂には、ミャンマー僧はもとより中国僧、韓国僧や在家修行者が思い思いの場所で陣取り、結跏趺坐で瞑想を始めている。この地域はどうしても蚊が多いが、殺生は厳禁なので天井から紐を垂らし、吊り上げ式の蚊帳の中に入って瞑想に取り組むことになる。

正面には大きなブッダの座像が置かれている。美術とか何とか言う前に、そもそも実用上の理由から仏像制作は始まったに違いない、などという想念がひとりでに湧いてくる。座仏の像を前にすると、こちらも自然と座相がキマってくるのだ。当然ながらここでは一切の私語は厳禁である。

上座部仏教の瞑想とは、決して無想無念と頭の中をからっぽにすることではない、と思う。例えば、パソコンのOSに支障が出たときに、対処法の一つとしてOSを一旦セーフモードで再起動して、問題の切り分けを行うやり方がある。本当に最低限のカーネルだけでOSを動かして、関係するプログラムを一つずつオフにしていく。どちらかというとそういうイメージに近い。

つまりパソコンそのものは動いているが、OSを構成する最低限のプログラムのみが走っていて、CPU負荷が限りなくゼロに近づいた最も負担の少ない状態。その状態を、タスクマネージャーでモニターし続ける行為。それが瞑想ではないのか。

それならば、Windowsの影で走っているMS-DOSは、意識の表層に現れない無意識の層であり、これをフロイトやユングが着目してフォーカスしたのではないか―などと、やはり思念はサルのごとくあちらにはねこちらにはねる。まだ修行が足りないな、と思い、再び瞑想に集中すべく意識を向けるー。

やがてやや遠くから、パーリ語の読経が始まったのが聞こえ出す。別なホールで行われている朝の読経だ。上座部の経は常にこういう出だしから始まるー

「evaṃ mayā śrutam ekasmin samaye
 わたくしはこのように聞いた(如是我聞)」

瞑想に浸っていた有馬はやや面を上げ、おもむろに目を開ける。一瞬、この数年の時光が脳裏に明滅し、時間の感覚が崩れ、過去がまるでなだれ込んでくるかのようだ。そして読経にかすかに唱和する。

「そうだ、わたくしはこのように聞いた。
 シンガポールこそ約束の地である。
 わたくしはある時、このように聞いたー」

https://schliemann.tokyo/death-and-the-flower-chapter1/

コメント

  1. ZenZen より:

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