国際課HPでの連載が終わって、もう10年以上経ちます。このホームページに記事を再収録するにあたって、今だから思うことを書きたいと思います。
「お堅いけど読みやすい記事」を心がけて
「Zenさんにもウチのホームページに連載を持ってもらうので、メールでどんどん記事を送ってきて下さい。何でも構いません」
と、赴任直前の打ち合わせで派遣元から有難いオファーがありました。僕の前任者がロンドン事務所に行って、2年間同様に連載していたことを僕は知っていたので、いずれそういう機会があるだろうとは思っていました。
当然、県の公式HPなので色々な人が目にするコーナーです。旅行なのか分からないような、一見海外生活を満喫しているようなあまり浮かれた記事は書けないと思いました。でも固い記事ばかり書いても、読む人にとってはつまらないでしょう。色々考えた結果、CLAIRの7海外事務所中ずば抜けて多い所管国数(ASEAN+インドで11か国)に毎月出張するので、その出張報告に福島県ネタを絡めて書けば、多少は読む方に身近に捉えてもらえるのではないか、という仮定で手探りのうちに連載が始まりました。(といっても、ほとんどが出張でやったこと行った場所に終始した感はありましたが…)
結局、このコーナーの記事がもとで実現した活動支援もあったので、書いていて反応があるのは素直に嬉しかったです。特に勿来工業のアテンドは、懐かしいものを再確認させてもらいました。
陳腐な表現だが、それは一つの青春だった
それから10年以上経ち、今回改めてこのブログに載せるために全ての記事を通読してみると、僕の20代最後の2年間を彩った様々な経験の中で、「福島県の知名度を上げる」という実に曖昧模糊たるミッションに対して僕の払った努力は、まるで広大な砂漠に注いだ一杯のコップの水のように跡形もなく消え去り、砂漠はやがて元の大砂原に戻ったかのようでもありました。
なんの寄稿か忘れましたが、当時ほかの媒体に書いた記事の中で「僕というひとつの石を世間の水面に放って、生じた波紋がどのように広がるかを見たい」的なことを書いた記憶があります。その波紋を中心から眺めてみたのがこの連載記事でした。
今こうしてシンガポールに駐在した2年間を振り返るとき、陳腐な表現で恐縮ながら「青春だなぁ」という感慨が湧きおこるのみです。中華系シンガポール人が田舎から出てきた人を「山亀」と表現することがありますが、僕という福島の山奥から出てきた山亀が、あちらこちらに頭をぶつけ首をすくめながら格闘した記録が、この国際課HPの連載といえなくもありません。
不名誉な知名度
しかしその後、2011年の地震とそれに伴う原子力災害によって、故郷福島は実に不名誉な名前の売れ方をしてしまいました。僕がどうあがいても知ってもらえなかった「福島」という地名が「Fukushima」というアルファベットで一夜にして世界のニュースを駆け巡り、もはや知らない人がいないくらいの固有地名になってしまったことに改めて想いをいたすと、運命の仕業に粛然たるものがあります。僕はもう外国の人に気楽に「俺、福島出身なんですよ」と言うことが出来なくなってしまいました。大抵話が面倒くさい方向に行くか、不愉快な経験をすることが多くなったからです。
10年前の記事を読んでいると「当時は気楽なもんだよな」と微苦笑してしまいます。あのころは、はね返さなければならない風評被害も誤解も何もなかったからです。本来、僕や「僕ら」が期待していた福島の知名度向上は、決してこういう不名誉な形ではありませんでした。しかし、ここからマイナスイメージをプラスに転じて力強くPRをしていくことは可能ですし、禍を転じて福と為すと言うように、かつての県の同僚の皆さんが日夜その方向で頑張っているのを見るにつけ、これからプラスの側面としての、もっと地元の良さが改めてクローズアップされてほしいと衷心から願っています。残念なことに、僕はプライベートな理由で県を離れてしまったので、もはやどうこう言う立場にはないことは分かっているのですが。
今だから分かることもたくさんある
不思議なことに、僕には県庁に入ったときから一つの確信があって「いつか自分は海外で仕事をし生活をする、もしかしたら結婚もする」と考えていました。真面目に仕事をしていれば評価してくれる人は出てくるのだから、つまらない仕事でも退屈でもパフォーマンスは維持するように、どんな酷い環境でも決して腐らないようにしようと考えていました。でも建設事務所にいるとどんどんモチベーションが落ちてきて、しまいにはお金を貯めて医学部を再受験でもしようかとまで思い始めた頃、このシンガポール行きの話がまるで降ってわいたわけです。
でも、正直こんなに早くその海外への機会がやってくるとは思いませんでした。時期尚早でした。別途小説にも書きましたが(リンク参照)、30代に入ってからようやく庁内での検討の遡上に上るんだろうと思っていたのに、27歳で選ばれた時には「まあ当然だよな」という不遜な自信と「まだ早すぎだろう」という焦りのようなものが多分にありました。人間的にあまりに未熟過ぎたことと、県庁内に全くネットワークがなかったことも含め、もう少し色々な経験をして仲間を増やしてから赴任すれば、また違った展開があったのかもしれません。もしかしたら県に残留してたかも知れないとも思います。
良いのか悪いのか、僕を送り出すときに派遣元は僕に一切条件を付けませんでした。ミッションとは言いながら「なんでも好きなようにやってきなさい」という広い心で送りだしてもらったんだと思います。馬齢を重ねた今は、かつての上司の気持ちが痛いほど分かります。当時は全くそういうところに思いが至りませんでした。
僕の駐在時代、色々な人が陰に陽に僕を助けようとしてくれました。でも人生をスネまくっていた僕には、彼らのそういう温かい好意をむしろ拒絶することが多かったように思います。10年前を振り返ると、色々な反省点があります。でも、それを含めて僕なのでこれはどうしようもありません。もう治らないと諦めました。
「公言すること」の重要性
マラソンを完走した時もそうでしたが、まずは目標を立てて、それを周囲の人に言いふらすことが大切だと思います。やがて自分の言葉に追い込まれ始めて、嫌でも努力を始めなければならなくなるからです。僕は入庁した時から「将来は会津大学か国際課に行く」と周囲に明言していて、県庁の語学研修に参加するなど、色々な形でアピールする努力をしていました。考えてみれば、これは高校時代のイギリス派遣選考で上手くいったやり方を踏襲しているだけなのです。同じスキームで、僕はこの「シュリーマンになるまで」のサイトを始めました。これだけ大々的に看板を掲げれば、恥ずかしくて嫌でも富豪になるべく、多くの言葉を覚えるべく努力するだろうと思うからです。そして僕には今回もうまく行く確信があります。
何ら根拠はないのですが。
いつも立ち止まった時に帰ってくる場所
僕はこれからも折に触れて、この「原点」ともいうべき2年間のことを懐かしく思い出し、何らかの示唆を得ようとするでしょう。肖像権や著作権など個人的にも少しひっかかりはあるのですが、まずはその個人的なよすが/寄る辺とすべく、このコーナーは設けられました。
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