【商人時代】そもそも、シュリーマンって何者?

商人時代
Who is Schliemann in the first place?
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「僕がシュリーマンになるまで」という名前のサイトを立ち上げたわりには、そもそもシュリーマンについて書いた記事がないことに、はたと気がつきました。ここでは彼の前半生である商人時代を、知らない人でも分かるようにかみ砕いて書きたいと思います。

Heinrich Schliemann (1822-1890)

Heinrich Schliemann

出典:Wikipedia

ハインリヒ・シュリーマンは、ドイツ出身の貿易商、考古学者です。
ドイツ北部にかつてあった「メクレンブルク大公国」の一都市であるノイブコーに、ルター派の牧師である父エルンストの9人の子どもの6番目として生まれました。翌年、一家は内陸部のアンケルスハーゲンに移り住み、ここで幼少期のシュリーマンは育ちました。現在、アンケルスハーゲンにはシュリーマン博物館が立てられています。

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貧しい少年時代

家庭環境

父エルンストは、貧しいルター派プロテスタントの牧師でした。母親のLuise Therese Sophie Schliemannは、シュリーマンが9歳になった1831年に乳がんでこの世を去ります。

焼け落ちるトロイを絵本で見る

1829年の冬、彼が7歳のクリスマスに、父親からGeorg Ludwig Jerrer著の「絵本世界の歴史(Illustrated History of the World)」をプレゼントされます。後に彼が自伝で語るところによれば、焼け落ちるトロイから逃げ出すアイネイアスのシーンを見たシュリーマンは、いつかトロイの遺跡を自分で掘り出すことを父に誓った、といいます(しかしこの話は後付けであるという説もあります)。

初恋

シュリーマンはこのアンケルスハーゲン時代に近所に住んでいたMinna Meinckeと仲良くなり、彼の風変りな空想につきあってくれるMinnaと、将来は一緒にトロイを発掘することを誓った、と自伝にはあります。が、それが本当かどうかは分かりません。自伝の中では、このMinnaと一緒に発掘に携わる夢を実現するために青年期に商売に精を出した、という書かれ方をしています。

一旦ギムナジウムに入学するもすぐ転校

父エルンストはシュリーマンに高等教育を受けさせる準備として、13歳の時にノイシュトレーリッツのギムナジウム(古典語学校、大学入学への準備機関)に彼を入学させます。しかし、教会の資金を横領した疑いでエルンストが職を失ったため、学費を払えなくなったシュリーマンは1年足らずでギムナジウムを退校せねばならなくなり、代わりに職業学校(RealeSchule)に通います。家庭の事情で高等教育を断念しなければならなかったことが、後年の彼のアカデミズムになんとか近寄ろうとする姿勢に大きな影響を与えていることは間違いなさそうです。

貧しい徒弟生活

1836年、彼が初めて見つけた仕事はフュルステンベルグの食料品店での従業員でした。彼はここで5年間働きますが、重い肉体労働と長時間勤務に身体が悲鳴をあげ、ある日重い荷物を運んでいる時に喀血して倒れてしまいます。仕事を辞めたシュリーマンは、1841年にドイツの港町ハンブルグに移動し、定期航船ドロテア号に乗って新天地の南米ベネズエラに移住し、新しい人生を切り開こうとしました。

大商人時代

南米行きの船が難破、オランダで就職

しかし、このベネズエラ行きの船が海上を12日間彷徨ったあげく、大風に煽られてオランダ沖で難破してしまい、シュリーマンは着の身着のままでアムステルダム近くの海岸に打ち上げられてしまいます。やむなく南米行きは諦め、代わりにアムステルダムで仕事を探すことにしました。

見つかった仕事はとある貿易商社での小使いさんで、将来を考えたシュリーマンはここで一念発起して語学の勉強を始めます。最初の半年で英語、次ぐ半年でフランス語をマスターし、独自の学習方法を極めた彼はその後イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語を次々習得し、1つの言語あたりにかかる時間は最終的に6週間まで短縮されたと自伝に書いています。

とんとん拍子の昇任、そしてロシア駐在

そのため、彼が次の職場であるシュローダー商会の面接に赴いた時には、弱冠22歳にしてすでに7か国語を操る青年として商会主を驚かせました。オーナーに気に入られた彼は、ここで瞬く間に出世します。仕事をしながらロシア語を学び、入社して2年後の1846年にはロシアのペテルスブルグ駐在員としてシュローダー商会から派遣されることになりました。ここで彼の商才が一気に花開きます。いくつかの商材の代理店としてロシアで商売に励んだ結果、彼はそこで一財産築き上げることに成功し富裕層の仲間入りを果たしたのです。

弟の死を知り、アメリカに渡航

その頃、彼の弟の一人であるルートヴィヒがゴールドラッシュに沸くアメリカのカリフォルニアに移住し、投資家として現地で成功していました。しかし仕事上のトラブルから1850年に彼が死んでしまったため、シュリーマンはロシアでの仕事をいったん中断し1851年はじめカリフォルニアに移住します。ここで彼は砂金堀りの人々を相手に高利の銀行を開設し、数か月で巨額の荒稼ぎを行いさらに資産を増額させます。彼は結局1852年にアメリカでの事業を売却しロシアに戻りますが、この時点ですでに巨額の富を築き上げていました。

最初の結婚とクリミア戦争

ロシアに戻ったシュリーマンはまだ30代に入ったばかりでしたが、すでに富豪としてジェントルマン的生活を送っていました。ここで最初の結婚相手であるエカテリーナと出会い、結婚生活に入りますが性格的な問題でこの結婚はあまりうまくいきませんでした。しかし最終的に3人の子どもに恵まれることになります。

その頃ちょうどクリミア戦争(1854-56年)が勃発し、すでにインディゴ(藍色の染料)商人として幅広く商売を行っていたシュリーマンはこの商機を逃さず、戦争物資(硫黄、銃器その他)を大量にロシア政府に納入し、さらに財産を拡大していきます。その結果、36歳の時にはすでに引退しても一生食べていけるだけの十分な財産を作り上げることに成功しました。

そして商売を引退、世界一周旅行に出発

そして最終的に現役を引退した1859年、思い立った彼は世界一周旅行に出発します。実はこの途中で、ちょうど幕末で開国したばかりの日本を訪れ、フランス語で当時の見聞記を残していたりします。この日本滞在記についても、いつかこのブログでご紹介したいと考えています。

以上、シュリーマンの前半生、商人として大成するまでの軌跡を追いました。彼はこの後、素人考古学者としての後半生を送ることになります。

なぜ僕がシュリーマンの前半生に惹かれたのか

彼の自伝には様々な噓や虚構が含まれているともっぱらのウワサですが、でもそういう虚構っぽい部分を取っ払ってしまっても、やはり彼の前半生の面白さは減らない気がします。当時高校生だった僕が、なぜ彼の前半生に強く共感を覚えたのか。

単純明快なサクセスストーリー

貧しい生い立ち、断念させられた高等教育、徒弟生活の苦労、新天地移住の挫折、語学を学んで成功、大商人になりロシアやアメリカで荒稼ぎ…まあ分かりやすいサクセスストーリーですね。今にして思うとまあ若干幼稚な感じがしないでもないですが、でもこういう単純な話が嫌いではないです。

商人としての「客観的な視点」

これは彼の著作をいくつか読むとわかってくる点ですが、先入観や偏見の多い当時のヨーロッパ人にしては珍しく、アジア人などに対するいわれのない先入観を全く感じさせない人となりを感じさせることです。高等教育こそ受けられなかったシュリーマンですが、商売で色々な国の人と付き合い、様々な商品を見る「眼」を磨いていった結果、良いものは良い、悪いものは悪いというある意味商人として当たり前の物の見方・価値観を確立していったのではないかと思います。

19世紀の記述であるのに、まるで現代人が書いたのではないかとハッとさせられるような観察・着眼点が見られるのはさすがだと思います。そういう醒めた姿勢に、高校生の僕はとても感銘を受けました。

コスモポリタン(世界市民)として地球を闊歩

本稿で述べた彼の前半生からも分かるように、彼は北ドイツの出身ですが、ドイツ人としての自分に全くこだわりはないようで、最終的には何人だか分からないような国際的な商人になっています。オランダで修行し、ロシア人と結婚しロシアで財産を築き、しかしアメリカ市民権もカリフォルニア時代に取得し(異論あり)、最終的には10か国語を超える言語に堪能になっています。自宅はパリとローマ、そしてアテネにありました。

当然、当時の世界的な背景としてヨーロッパ人が多く世界各地に移り住み、貿易業に従事して競って富を築いていたのですから(例:長崎のグラバーとか上海の西洋商人群)、シュリーマンだけが決して同時代人から突出していたわけではないのですが、全地球規模で行動した彼の一生はやはり僕にとっては非常に魅力的でした。高校時代の自分も「将来はこういう風に冒険してみたいものだと憧れを持ったものです。

語学に対する異常な情熱

貿易の仕事をする上で語学力がプラスアルファになるというのは、今に始まったことではなく昔からずっと言われていることです。しかしシュリーマンの場合、当然仕事上の武器として語学を学び始めた経緯はあるのでしょうが、途中から仕事とは関係なしに語学習得そのものに熱意を上げてしまい、しまいにはアラビア語とか古典ラテン・ギリシャ語のような明らかに使い道がなさそうな言語にまで手を広げています。

当時英語と並行してフランス語の勉強も始めていた高校時代の僕にとって、なんとなくこの風変りなドイツ人が身近な存在として感じられるようになっていました。残念なことに僕の前半生はとっちらかっていて、色々な言葉を学び散らかしたままで雑然と放置されているのですが、でも残りの時間を使って彼のように情熱を持って語学習得をしてみたいと考えています。

このサイトは「僕はシュリーマンになる」と思った高校生時代の自分に向けて作ったもの

僕がこのサイトを立ち上げた経緯も、ある意味「シュリーマンのようになりたい」と思った高校時代の自分に向けて書いている部分が多分にあって、

「ほら、今までいろんな失敗や挫折や遠回りをしてここまで来たけど、でも結局無意識の中に「シュリーマンみたいになりたい」という想いがあるから、シンガポールに行ったり貿易商社に勤めたりして、最後はなんとなくそれに近いようなポジションにようやくたどり着いたんだよ。
遅くなんかないから、ここから始めればいいんだよ」

と自分に言い聞かせる、そのよすがとしてこれまでの自分を振り返る必要があったように思うのです。なので、ぶっちゃけ訪問者の方がどう思うか、自慢話に聞こえるとかつまらない自分語りになっているかとか、そういう部分は度外視しています。

何年か、あるいは何十年かして振り返った時に、「あ、結局人間は自分が願っているようにしか生きることが出来ないんだ」とう当たり前の事実を確認するために、これまでの自分とこれからの自分をライフログに残そう。そういう狙いのもとに、このサイトは立ち上げられました。

(了)

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